エンジニアファーストの終焉とユーザーファーストへの回帰
2020年代の初頭、「エンジニアファースト」という言葉が流行した。僕はこの言葉を初めて聞いたとき、率直に言うと意味がわからなかった。エンジニアがファーストな会社って何なんだ、と。
先に断っておくと、この記事で「エンジニアファースト」という言葉を使い、エンジニアという職種を中心に議論を進めるのは、それが最も象徴的だからだ。
しかし僕が本当に言いたいのは、エンジニアに限った話ではない。Webマーケター、コンサルタント、M&A担当者、企業法務、経理。あらゆる専門職に同じ構造が当てはまる。「エンジニアファースト」は、その構造を最も端的に言い当てた言葉に過ぎない。
「ファースト」に来るべきは誰か
企業の存在理由は、社会から何らか必要とされることだ。必要とする主体はユーザーであり、所有者としての株主である。この前提に立てば、ユーザーファーストや株主ファーストは意味が通る。企業の意思決定の最上位基準に、価値を届ける相手を据えている。
では「エンジニアファースト」とは何か。特定の職能を持つ従業員を、意思決定の最上位に置くということだ。これは構造的におかしい。エンジニアに限らない。これは別の職種で当てはめてみれば、浮き彫りになる。「マーケティングファースト」「法務ファースト」「コンサルファースト」。どれも同じように奇妙だ。従業員は企業が価値を届けるための手段であって、目的ではない。手段を目的の上に置く語法が流通していたこと自体が、時代の歪みを映している。
当時この言葉を使っていた人たちが言いたかったことはわかる。エンジニアが働きやすい環境を整えることが競争優位につながる、という主張だ。それは当時の経営環境を踏まえた経営判断としてはあり得るし、AI時代においても、ソフトウェアエンジニアリング的な感性に基づく問題解決は引き続き強力であり続けるだろう。むしろ現実には、マーケティング・法務・会計といった企業内におけるあらゆる業務領域が、ソフトウェアエンジニアリング能力を活かしてAIを活用することができる人物によって、急速にAI化されていくはずだ。
しかし「ファースト」という語を選んだ時点で、主張の射程は環境整備を超えてしまった。語義をよく考えれば気づくはずの違和感に、言っている側が気づいていなかった。これは、このような言葉を使って環境整備を推し進めた人たち自身の多くが、自分自身のエンジニアという職業的アイデンティティから生み出される利害をメタ認知できなかったことによる知的怠慢だと僕は思っている。前述したあらゆる業務領域を駆逐していくことができる”エンジニア”であるためには、自己の職業的アイデンティティよりも、ユーザー価値や株主価値という最終的な成果に近いものを見据えられることが必須条件になるはずで、そのような知的怠慢・メタ認知能力の欠如は、成果を生み出すことと真逆のコンピテンシーになるだろう。
なぜ「専門職ファースト」は生まれたか
とはいえ、この言葉が生まれた背景には構造的な必然があった。
2010年代から2020年代初頭にかけて、ソフトウェアがあらゆる産業を侵食した。プログラミング能力は急激に希少になり、採用競争は過熱した。企業は生き残るためにエンジニアを囲い込む必要があり、「エンジニアファースト」はその最適化戦略として機能した。
つまりこれは思想ではなく、希少資源への最適化戦略だった。
同じ構造は他の専門職にも存在していた。企業会計の複雑さ、法務の専門性、マーケティングのテクニカル化、M&Aの秘匿性。どれも「自分たちにしかできない」という希少性の主張に支えられていた。複雑であること、理解しがたいことが、組織内での立場の強さに直結していた。
希少性が権力を生む。これは労働市場の原理であって、善悪の問題ではない。問題は、その希少性が生んだ権力が、企業の意思決定をどう歪めたかだ。
職能による意思決定の乗っ取り
プログラミング言語を操る能力の不均衡は、企業内のパワーバランスに偏りを生んだ。実装できる人間が意思決定を握り、ユーザーではなく「作る側の都合」が優先されるようになった。技術的に可能かどうかが、ユーザーにとって価値があるかどうかよりも先に議論される。この転倒が常態化した組織は少なくなかった。
他の専門職でも同じことが起きていた。
コンサルタントは「理論的には」「フレームワークでは」と言って、現場のリアリティを二の次にする。法務は「リスクがあるので」と言って、事業判断にブレーキをかける。マーケターは「データ上は」と言って、ユーザーの声を数字に還元する。M&A担当者は「ディール上のロジックでは」と言って、統合後に現場が崩壊するリスクを軽視する。
共通しているのは、専門性が意思決定の「拒否権」として機能しているということだ。ユーザーファーストな判断をしたくても、専門職の論理が間に入ることで、意思決定が歪む。専門性は本来、より良い意思決定を支えるためにあるはずだ。しかしそれが権力基盤になった瞬間、ユーザーファーストは構造的に阻害される。
アイデンティティの癒着
この歪みには、もう一つ厄介な側面がある。職能的アイデンティティの問題だ。
「エンジニアファースト」という言葉は、多くの人に安心を与えた。スキルを身につければ、自分は価値ある存在になれるのだと。エンジニアを目指すスクールが乱立し、転職市場でエンジニアの肩書きがブランドのように扱われた時期があった。
しかしその安心は、自分の価値を相対化する視点を奪った。「僕はエンジニアだから大丈夫」。この確信は、自分の提供する価値がユーザーにどう届いているかを問い直す動機を消す。
これはエンジニアに限った話ではない。MBAブーム、資格ブーム、マーケティング認定資格。どれも同じ構造だ。「僕はMBA持ちだから」「僕は弁護士だから」「僕は公認会計士だから」。肩書きそのものに価値があるかのような錯覚が広がり、専門職としてのアイデンティティと自己の価値が癒着した。
この癒着が生む態度は、傲慢さとして周囲に伝わる。明確に指摘されることは少ない。しかし静かに、面白い仕事を振られなくなる。率直なフィードバックが来なくなる。信頼の蓄積が止まる。本人が気づく頃には、キャリアの毀損は不可逆的な水準に達している。
この構造は、言葉を作った側だけの責任ではない。それを無批判に受け入れ、自分の立ち位置を問い直さなかった側にも、同じだけの責任がある。
AIが溶かしたもの
2020年代後半、AIの発展がこの構造を根底から揺さぶり始めた。
AIが暴いたのは、「複雑だと思われていたが、実はそうでもなかった」という事実だ。
プログラミングはその最たる例だ。AIによって実装能力は民主化され、コーディングは個人の固有能力ではなく環境によって拡張可能なものになった。実際、僕がAIを使ってコーディングすると、かつて「エンジニアファースト」を掲げていた人より高いパフォーマンスが出てしまうことがある。僕自身は職業エンジニアとしての職歴は大したことはないが、アーキテクチャ設計能力と曖昧な要件を具体的な設計に落とす能力には秀でているタイプで、これは冗談のような話だが、現実だ。
企業会計や法務はどうか。AIにとっては「ルールベースの推論」であり、膨大な判例や会計基準の参照と適用は、人間にとっての複雑さとは比較にならないほど容易に処理される。
テクニカルなマーケティング分析は、AIの得意領域そのものだ。データの収集、セグメンテーション、A/Bテストの設計と解釈。これらを「専門性」と呼んでいた時代は終わりつつある。
コンサルティングやM&Aにおけるフレームワークの適用と事例比較は、AIが最も力を発揮する作業だ。「過去の類似案件では」という知識は、もはや個人の頭の中に蓄えておく必要がない。
崩れているのは、専門性そのものではない。専門性に紐づいたアイデンティティの希少性だ。かつて「自分たちにしかできない」と思われていた領域が、AIによって次々と民主化されている。中途半端な専門性がもたらしていた権力基盤が、静かに溶けている。
ユーザーファーストへの回帰
この変化は、悲劇ではなく正常化だ。
AIによって、企業はようやく「ユーザーに向き合う自由」を取り戻しつつある。特定の専門職の希少性に振り回されず、ユーザーにとって何が価値かを起点に意思決定ができるようになる。本来あるべき姿への回帰であって、どこかへの後退ではない。
全ての専門職は「価値提供の1要素」に戻る。エンジニアも、マーケターも、コンサルタントも、法務も、経理も。降格ではない。最初からそうだっただけだし、どの専門職においても、プロフェッショナルと認められるような人物は、これまでも無駄な傲慢さを持ち込まなかった。それらの職業にかつてついていた一時的なブランド価値にぶら下がり、フリーライドしていた一部の人が淘汰されるだけだ。
そして淘汰されるのは専門性そのものではない。専門性を盾にして、ユーザーや株主という企業の根本的な存在意義とのアラインを拒む態度だ。「僕は○○だから」で思考を止める人が、AIという鏡に自分の価値の実態を映されたとき、何が見えるか。
生き残るのは、自分の専門性がユーザーにどう届くかを問い続けられる人であり、職種ではなく、届けた価値で自分を定義できる人だ。
もしこの文章を読んで感情的な反発を覚えるなら、その違和感の出どころを、一度だけ疑ってみるといい。