大奥の様相を呈する港区女子たち
東京都港区。その地名が内包するきらびやかなイメージの裏側には、高度に洗練され、かつ残酷な政治が渦巻いている。
シャンパングラスの数や、インスタグラムに並ぶ華やかな集合写真。外側から見れば余裕たっぷりに見えるその世界も、一歩足を踏み入れれば、そこには江戸時代の大奥を彷彿とさせる緻密な序列と派閥の論理が支配している。
なぜ、彼女たちは(そして彼らは)、この終わりのない競争に身を投じるのだろうか。今回は、現代の港区に立ち上がる「大奥」という構造を分解し、そこから脱出するための知恵について考えてみたい。
現代の大奥という権力構造
かつての大奥が将軍という唯一絶対のリソースを巡る女たちの政治空間であったように、現代の港区もまた「お金・権力・希少リソース」を持つ存在を中心に、見えないルールで静かに削り合う構造を持っている。
要するに、安心の確保のために競争し、競争の維持のために自分を消耗させるという、極めて燃費の悪い生存戦略が採用されているのだ。
そこにあるのは、以下のようなメカニズムだ。
- 緻密な序列と「空気読み」 誰が一番の「お気に入り」か、誰がどの「派閥」に属しているか。それらは決して明文化されないが、その場の空気としてびっしりと張り付いている。
- 安心のための競争 この世界において、現状維持は後退を意味する。常にアップデートされる希少性を獲得し続けなければ、そのコミュニティ内での安全は保障されない。
- 自己摩耗のループ 競争のために自分を消耗し、その消耗を埋めるためにさらに高いレベルの競争を求める。この構造に長くいるほど、精神的な疲弊は加速していく。
それは、華やかな衣装を纏ったまま、出口のない迷宮を歩き続けるようなものだ。
日替わり将軍と、引きずり降ろされるリスク
現代の大奥が、江戸時代よりもさらに闇が深いのは、中心に座る「将軍」が絶対的ではないという点にある。
かつての将軍は制度に守られた不可侵の存在だったが、現代の将軍役、すなわち、お金や肩書きを持つ男たちは、非常に不安定な立場にある。彼らは「日替わり将軍」(*1)に過ぎないのだ。
男側も安全ではない。一瞬でも将軍役を演じれば、そこには「期待」という名の重圧がのしかかる。そして、その期待を少しでも裏切った瞬間、彼女たちのネットワークを通じて静かに、しかし確実に引きずり降ろされる。
攻撃は直接的ではない。評判、噂、紹介、そして「空気」。それらによって外堀を埋められ、本人が気づかないうちに社会的、あるいはコミュニティ内での地位が削られていく。
これを身も蓋もない言葉で翻訳するなら、「村八分を回避するための忖度コストの支払い」に失敗した瞬間に、その人物は掟を破った者として処理されるということだ。現代の大奥において、最も恐ろしい武器は「評判という名の空気」なのだ。
将軍にならないことで得られる自由
この構造から抜け出すには、どうすればいいのだろうか。
答えは、勝ち負けの土俵から半分降りる、という視点を持つことにある。僕はこれを舞台袖で紅茶を飲む視点と呼びたい。
仕組みとして構造を眺め、他人の期待に応える「将軍」の座を競うのではなく、あるいはその将軍の寵愛を競うのでもなく、ただ距離を取る。
ここで必要になるのは、将軍にならない勇気だ。資本主義社会の現代を生きていると、「将軍になれ」という圧がインスタグラムやXのようなSNSを開くたびに、否応にも僕たちにふりかかってくる。それを避けるためには、「将軍にならない」という選択を意識的にするしかない。
- 希少性の競争から降りる 誰かと比較される土俵に立たない。
- 絶対的な座標を自分の中に持つ 日替わりの価値観に自分を預けない。
- 「舞台袖」を自分の居場所にする 主役のスポットライトよりも、穏やかな紅茶の時間を優先する。
華やかな世界を否定する必要はない。ただ、それが「大奥」という構造に過ぎないことを知っておくだけで、僕たちの生存戦略は大きく変わる。
もしあなたが、見えない序列や空気読みで息苦しさを感じているなら、一度深呼吸して舞台袖に移動してみてはどうだろうか。そこには、誰からも引きずり降ろされることのない、本当の意味での自由が待っているはずだ。
(*1) 現代における「将軍」は、その時々の市場価値(年収、時価総額、SNSでのフォロワー数など)によって定義される。そのため、外的要因によって容易にその座を追われる脆弱性を内包している。