僕は自分のことを能力主義者と勘違いしていた
学生時代、新卒就職活動に皆が取り組む頃、僕は体育会系の同期たちをどこか冷ややかな目で見ていた。 声が大きくて、むさくるしくて、飲み会では騒がしい。論理よりもノリで動いているように見えた彼らが、なぜ就職活動で評価され、組織の中で重宝されるのか、正直よくわからなかった。 (僕自身は、高校時代までは部活動に熱心に取り組んでいた方だったものの、大学生になってからは、どちらかと言うと軟派なサークルでフラフラと遊んでいるタイプだった。)
当時の僕は、自分を「合理的」で「能力主義」な人間だと思っていた。 スマートに解を出し、効率的に動くことこそが正義だと信じていた。だから、非合理的な精神論や、感情的なつながりを重視する彼らのやり方は、時代遅れに見えていたのだ。
けれど、社会人経験を重ね、組織の中で一定の責任を持つ立場になるにつれ、その認識が少しずつ、しかし決定的に揺らいできた。
僕は自分のことを能力主義者だと思っていた。でも、その半分は勘違いだったのかもしれない。
率直さと無礼さの境界線
仕事をしていると、「話が通じない」と感じる瞬間がある。 それは言語が違うという意味ではなく、言葉を受け取る「OS」が違う感覚に近い。
例えば、ある仕事の成果物の品質に致命的な欠陥があり、それを修正するための根本的な指摘をしたとする。僕としては、問題を解決し、成果を出すための最短距離を提案しているつもりだ。そこには人格攻撃の意図など微塵もない。事実として、構造として、ここが間違っているから直そう、と言っているだけだ。
しかし、それが「攻撃」として受け取られることがある。 「そんな言い方をしなくてもいい」「もっと寄り添ってほしい」「否定された気がする」。 そうした反応が返ってくると、途端にコミュニケーションのコストが跳ね上がる。事実を伝える前に、まず相手の感情をケアし、安全を確保し、自尊心を傷つけないためのクッション言葉を何重にも重ねなければならない。
結果、仕事は遅くなる。 僕はフルスロットルで走りたいのに、常に半クラッチで運転しているような疲労感が残る。
なぜ、事実を事実として受け取れないのか。なぜ、成果よりも「傷つかないこと」が優先されるのか。 かつての僕は、これを単純に「能力が低いから、感情と論理を分離できないのだろう」と切り捨てていた。
けれど、最近になってその解像度が少し上がった。 これは能力の高低の問題というより、耐性や前提条件の話なのだ。
能力という入場条件
僕が一緒に働く他者に本当に求めているのは、個人のスキルセットの高さではない。 「自分は何ができて、何ができないか」を正確に把握するメタ認知能力だ。そして、できないことを素直にできないと認め、他者に任せられる役割思考だ。
自分はこの分野では勝てないと自覚し、できる人に良いパスを出し、チームとしての勝利に貢献する。それができるなら、個人のスキルが低くても全く問題ない。むしろ、僕にとっての仕事ができる人というのは、この自分の使い所を心得ている人のことを指す。
しかし、この境地に至るには、実は過酷なプロセスが必要になる。
- 分野は何でも良いので本気で努力する: まず、その分野に対して主体的かつ真剣に取り組むこと。
- 圧倒的な才能の差を知る: 努力の果てに、上には上がいるという冷酷な現実に打ちのめされること。
- 自己否定的な内省: 自分は万能ではないと認め、プライドを一度へし折られること。
- 役割の受容: その上で、では自分はどこで役に立てるかを自分の中で再構築すること。
このプロセスを経ないと、人は本当の意味での謙虚さや役割意識を持てない。中途半端な努力しかしていないと、「まだ本気を出していないが、本気を出せばできるはず」という幻想にしがみつき、プライドを守ることに必死になってしまう。
そして、そもそも本気で努力するためには、「自分ならできるかもしれない」という自己効力感が必要だ。これがないと、人は傷つくのを恐れてスタートラインにすら立てない。
つまり、僕が求めるメタ認知や役割思考は、ある種の強者の論理の上に成り立っていたのだ。 能力がある(努力し、挫折し、乗り越えた経験がある)こと自体が、成果や役割の話をするための入場条件になっている。
体育会系が評価される理由
ここで、新卒時代の僕の疑問が氷解する。 なぜ企業は、あのむさくるしい体育会系を評価するのか。
それは彼らが、「本気で勝ちに行き、圧倒的な才能差に直面し、それでもチームのために自分の役割を全うする」というプロセスを、身体的に通過しているからだ。
彼らは自分がどれだけ努力しても、レギュラーになれないことがあることを知っているのだ。そして自分が点を取らなくても、チームが勝てばそれでいいことを知っている。監督に怒鳴られ、率直すぎるフィードバック(罵倒に近いこともあるだろう)を浴びても、それが期待の裏返しであることも理解している。 だから、仕事の場でも事実を事実として受け止められるし、自分のプライドよりもチームの成果を優先するという思考的なOSをすでに身につけている可能性が高い。
当時の僕には、彼らがそのような身体化されたチームの成果主義という強さを持っていることが見えていなかった。 表面的な非合理さだけを見て、その奥にある「組織で成果を出すためのOS」に気づけなかったのだ。
能力主義ではなく、成果主義であり役割主義
僕は自分のことを能力主義者だと思っていた。 能力の低い人間を見下し、高い人間を好む、嫌なやつだと自己嫌悪していた。
でも、そうではなかった。 僕は、能力によるマウンティング(優劣の競い合い)には興味がない。 「あいつより俺の方が賢い」というようなことはどうでもいい。
(ただし、無意味なプライドを捨てきれず、仕事を全うする能力がないにも関わらず、他者に頼ろうとしない者に対しては、「自分がこうやってやったら1分で終わる」というようなことを言うことはある。これは自分がすごいと言いたいわけではなく、非効率さを自認せず、チームの律速段階になっている者に対する憤りの発露に近い。言われた側は高圧的に感じるかもしれないが、それで相手に気づきをもたらせられるならプラスだと思っているし、それを伝える相手や場所、言い方は選んでいる。)
僕が興味があるのは、「どうすればチームで勝てるか(成果)」と「誰をどこに配置すれば最適か(役割)」だけだったのだ。 成果に対して執着し、その成果を創出するためのチームメンバーの役割に対して合理的でありたい。
ただ、その議論を成立させるためには、相手にも同じ土俵に立ってもらう必要がある。 自分の無能さ(できないこと)を直視し、感情的にならずに役割を引き受けるだけの胆力が必要になる。
その胆力を持っているのは、結果的に「能力の高い人(何らかの分野を極めた経験のある人)」であることが多い。 だから僕は、これまで、そしてこれからも外形的には能力を重視しているように見えるはずだ。
能力は、人を見下すための武器ではなく、自分と世界との距離を測り、チームの中での居場所を決めるためのものさしと表現するのが良いだろう。
そう考えると、僕の振る舞いの根本は、純然たる能力主義というより、成果主義のための手段としての能力主義だったと言える。 「能力がない」という言葉は、人格否定ではなく、その分野については他者に任せるべきだという状態記述に過ぎない。
成果と役割への誠実さ
もちろん、こうした考え方を「冷たい」と感じる人もいるだろう。 「全員がそんなに強くなれるわけじゃない」「もっと優しくしてほしい」という声もわかる。事実、僕の率直さは、時に無礼さと混同され、摩擦を生んできたという自覚もある。
しかし、仕事という営みの本質が、他者が何らかの価値を感じる成果を出すことにある以上、僕はそこに対して嘘をつきたくない。 傷ついた自尊心を慰め合う表面的に優しい関係よりも、事実を直視し、互いの強みと弱みを補完し合えるタフな関係の方が、結果として遠くまで行けるし、現実世界をサバイブできるだけの力をつける上でも真に優しいものだと信じているからだ。
僕がかつて冷笑していた体育会系の彼らは、そのことを身体で知っていた。 最後にチームで笑うために、自分の小さなプライドを捨てて役割に徹する。その姿は、今の僕から見れば誠実な態度に見える。
僕は自分のことを能力主義者だと勘違いしていた。 でも本当は、ただ最高のチームで、最高の成果を出したいだけの役割主義者だったのだ。
これからも僕は、率直であり続けるだろう。 それは相手を傷つけたいからではない。チームで働く他者を、対等に背中を預けられるパートナーとして信頼したいからだ。
事実という厳しい現実の前で、共に打ちのめされ、共に悩み、それでも最後には役割を果たしてハイタッチをする。 そんな大人の部活動のような仕事を、僕はこれからも続けていきたいと思っている。