減点主義がもたらす挑戦なき社会
仕事でミスをした人が、その仕事を自分の責任範囲から外すことで、ミスをなくそうとする。こんな光景を、あなたは見たことがあるだろうか。
これは一見すると合理的な判断に見える。ミスの再発を防ぐための「構造改善」だと言えなくもない。しかし、よく考えてみれば、これは自らの存在意義を削っていく行為だ。特に間接部門では、担当領域を縮小していけば、いずれ「あなたがいなくても回る」状態になる。
なぜ人は、自分の価値を削りながらミスを避けようとするのか。そこには、個人の問題を超えた構造的な力学がある。社会全体を覆う減点主義と、それと奇妙に結びついた新自由主義的価値観が、挑戦を生まない社会を作り出しているのだ。
減点主義が生む撤退の合理性
ミスをしたときに責任範囲を狭める行為は、三つの心理が重なって起こる。
一つ目は、恐れの回避だ。「もう怒られたくない」という感情が、リスクそのものを遠ざけようとする。二つ目は、自己効力感の低下だ。「自分ではうまくできない」という認識が、挑戦する意欲を削ぐ。三つ目は、評価の最適化だ。「関わらなければ減点されない」という計算が、撤退を正当化する。
この三つが同時に働くと、人は"撤退"という形で自尊心を守ろうとする。しかし皮肉なことに、それは自分の存在領域を削っていく行為なのだ。
問題は、これが個人の弱さの問題ではないということだ。多くの職場では、成果と責任が個人単位で分断されている。誰かがミスすると、その人の"信用口座"が即座に減点される。一人のミスで成果が消える状態は、実は構造的に脆い組織なのだ。
理想的な組織は、成果の仕組みをチーム単位で冗長化している。誰かが落としても全体のパフォーマンスは落ちない設計。そういう構造があれば、個人の失敗は「学習コスト」として吸収できる。
しかし多くの組織では、そうした冗長性を作りきれていない。減点方式の環境では、人は挑戦を避けて防御に走る。つまり、ミスをしないことが目的化して、価値を生み出すことが副次作用になるのだ。
その構造の怖いところは、能力の高い人ほど先に疲弊して撤退することだ。責任感のある人ほど、自分の手を動かす範囲を広げようとしてミスの確率も上がるから、結果的に損をする。一方で、波風を立てずに「何も起こさない」人が安全圏に入る。そして組織全体が「静かに腐る」のだ。
日本社会全体の減点化
この構造は、個別の組織の問題を超えて、日本社会全体に広がっている。
国家として「すでに持っている」し、個人単位でも意思決定に影響を持つ世代の人が「すでに持っている」あるいは「もう諦めている」人の割合が高い。そのため、新たな価値を生むことではなく、今できることが損なわれないことを重視している人の割合が多いのだ。
減点社会とは、「失わないこと」が正義になってる構造だ。国も企業も家庭も、長く続くものほど"維持の論理"に寄っていく。維持の論理には、痛みを引き受けて変化する勇気が削がれる。
問題は、「守る人が多い」こと自体ではない。守ることが新しい価値を生む土台づくりになっていないことだ。保守とは本来、"文化を絶やさないための創造"のはずだ。しかし今の日本は、「もう減らさないようにする」努力は上手いけど、「増やすために一度壊す」ことができなくなっている。
余裕の喪失と利己性の変質
みんなに余裕がなくなってきていることや、より良い生活を求めて「もっと欲しい」という欲を煽りすぎているがゆえに、守ることが次の世代や他者のための利他的な動機ではなく、利己的な自己保身的動機に向きすぎていることも問題だ。
利己的な自己保身のために振る舞うこと自体は当たり前であり、それ自体が悪だというようなものではない。しかし、みんなに余裕がないがゆえに、利己的な自己保身を真に追求しようとしたときに、直接的に利己的に振る舞うことが利益的になる人の割合が高くなっている。
余裕があれば、利己的な自己保身をやろうとすると、結局他者のために動くという動き方になる。一定の余裕ができてくると、自分の利益を増やそうとしたときに、他者に協力してもらう必要性が出てくるからだ。「余裕のなさ」が人の利己性の質を変えるのだ。
本来、自己保身は悪ではない。むしろ、生きるための健全な本能だ。ただ、それに他者や未来を考えるだけの余白がなくなると、「自分を守ること=他人を切り捨てること」になっていく。
そして国レベルでも、社会が成熟していくほど、"成長"より"防衛"を選ぶ層が増える。経済構造も、教育も、福祉もみんなその延長線上で設計されている。失敗できない、落ちこぼれを出せない、だから挑戦しない。
余裕とは金銭や時間だけではない。「自分が失敗しても世界は続く」という信頼のことだ。その信頼をどう再構築するかが、次の社会の土台になる。
新自由主義と保守主義の悪魔的結合
ここで考えたいのが、新自由主義的な価値観との関係だ。
新自由主義とは本来、「自由競争によって創造が生まれる」思想だったはずだ。しかし日本的文脈に入ると、自由はなく責任だけが残る。
しかも、「責任」の中身が結果責任に偏っている。だからプロセスや挑戦は評価されず、「失敗=無能」「成功=正義」という単線構造になる。これが保守的な層の価値観と結びつくと、失敗のリスクを取る人間が減って、社会全体が「波風立てない生き方」を合理化するようになる。
つまり、自由市場の顔をした官僚的安定社会ができあがる。
本当の自由主義は、失敗の余白を保証する仕組みとセットで成り立つはずだ。しかし日本では、個人の能力によって結果が決まるという自己責任的価値観が、競争を加速させているように見えて、実際には挑戦を全く産まない構造を作ってしまっている。
失敗が個人の自己責任になってしまう上に、失敗が叩かれるからだ。
新自由主義が日本に入った時、それは「個人が自由に挑戦できる社会」という理想ではなく、「失敗したら自己責任」という脅しとして機能し始めた。そして保守的な価値観を持つ層が意思決定権を握っている社会と組み合わさった結果、誰も挑戦しない社会が完成したのだ。
挑戦を生む構造への転換
では、どうすればこの構造を変えられるのか。
減点の世界から脱するには、「成功体験を共有資産にする仕組み」より先に、失敗の影響範囲を局所化する仕組みを設計することが鍵だ。そうすれば、「挑戦しても組織は壊れない」という安心感が戻る。
個人レベルでは、余裕を持つことが重要になる。金銭的余裕だけでなく、精神的余裕、時間的余裕。そして何より、「自分が失敗しても世界は続く」という信頼を持つこと。
組織レベルでは、成果の冗長性を設計することだ。一人のミスで全体が崩れない構造を作る。そして、プロセスや挑戦そのものを評価する仕組みを導入する。結果だけでなく、「なぜそれに挑戦したのか」を問う文化を育てる。
社会レベルでは、セーフティネットの再構築が必要だろう。失敗しても再チャレンジできる社会。教育や福祉、雇用の制度を、「失敗を許容する」前提で設計し直す。ここでいう福祉というのは、もちろん高齢者福祉の話ではない。
そして何より、「守ること」と「創造すること」を対立させない視点が必要だ。本当の保守とは、次の世代のために土台を整えることだ。それは時に、古いものを壊すことも含む。
減点主義と新自由主義の悪魔的結合を解くには、「失敗の自由」を取り戻すことから始めるしかないのだ。
終わりに
間接部門の社員が自分の責任範囲を狭めていく姿は、実は日本社会全体の縮図なのかもしれない。誰もリスクを取らず、誰も新しい価値を作らない。表面的には安定しているのに、静かに衰退していく。
この構造を変えるのは簡単ではない。しかし、まず僕たちにできるのは、この構造を認識することだ。自分がどんな力学の中で生きているのかを理解すること。そして、小さくても、自分の周りから変えていくこと。
失敗を恐れない文化は、一人ひとりの小さな挑戦から始まる。あなたの職場で、あなたの組織で、あなた自身が、その最初の一歩を踏み出せるだろうか。