権力とは何か
SBIグループの北尾吉孝氏は、株式保有比率としては決して大きくない持ち分しか持っていないにもかかわらず、グループ内で絶対的な権力を持っている。これはなぜだろうか。
権力とは、株式の所有でも法的な地位でもない。それは「その人の言うことを聞くことが、自分の利益につながる」と思わせられる人の数と、その対象者の影響力の大きさで決まる。ここでいう利益とは、経済的利益だけでなく、総合的に見て自分が実現したいことを実現できる度合いのことだ。
特定の人物のビジョンに共感するというのは、その人物が成し遂げたいことを実現することが、自分の有形無形の利益にもつながると感じている状態と言える。
また、権力が大きい状態をお金という文脈で語るでならば、ある人物が調達したお金を、他者に渡すことで、そのお金を調達した人物が成し遂げたいことを成し遂げられる方向に他者が動いてくれる度合いが高いことを指す。
お金をただ持っているだけの2代目が会社をうまく動かせないのは、そのような2代目に"権力"がないからだ。
北尾氏のケースで言えば、彼の「絶対性」は形式的な所有よりも、"信頼のハブ"としての位置取りにある。SBIという巨大グループの中で、「北尾さんが言うならそうしよう」と思わせる構造が、何層にも張り巡らされている。
金融・証券・保険・VCなど多領域にまたがる実績の積み重ね、各社のトップや有力者への長年の貸し・恩義、自らが決定した案件が結果を出してきたという実績。
こうした「信用の総量」が、株の持ち分よりはるかに重い。つまり、権力とは信頼の流通構造そのものなのだ。株主名簿には現れない、無形の支配網である。
見えない権力──攻撃を防ぐ盾と認知を歪める磁場
権力がもたらす効果は、直接的な命令系統だけではない。見えづらいところで言うと、その人を潰そうとする人も減っていく。あるいは、そういう人を周囲の人が逆に潰すようになる。
人は見ようとしたものしか見ない。だから、ある人が悪行を働いていたとして、それを見ようとする人、暴こうとする人が減っていくのだ。権力とは、攻撃を防ぐ盾でもあり、周囲の認知を歪める磁場でもある。
このような磁場が働くとき、その人物の悪行は、暴こうとしているのに情報に辿り着けなくて暴かれないというより、「暴く行為が損になる」ように世界が調整されていく。強者の周りでは「沈黙」や「忖度」だけでなく、積極的な防衛反応が起きる。これを倫理的に批判しても仕方ない。権力が社会の生態系にどう作用するか、そこを見ておく必要がある。
ジャニー喜多川氏の事例
ジャニー喜多川氏が亡くなった後に不祥事が問題化したのは、その典型例だ。
彼の生前は、事務所全体が巨大な磁場として機能していた。メディア、広告、タレント、視聴者まで含めて、「触れないほうが得」という空気を共有していた。死によってその磁場が一瞬で消えた。それと同時に、人々の「見ようとしなかった目」が一斉に開いた。
あれは新しい情報が出たというより、見えなかった構造が壊れた瞬間なのだ。権力がなくなると、世界の焦点の合わせ方そのものが変わる。
同様の例は、戦前の日本軍の幹部や、日本電産の永守重信氏にも見られる。戦前の日本軍は、天皇を頂点とする統制の中で、組織の自己保存本能が極端に働いた。上層部を批判することは「国を危うくする」と同義にされた。誰も見ようとしなかったし、見たとしても声を上げられなかった。戦後、天皇の権威と軍の制度が一度に失われた瞬間、抑圧されていた証言や資料が一気に噴き出した。
永守氏の場合は、逆に生前からその磁場の中に「恐怖と成果」の両方が組み込まれている。彼の強権を誰も正面から批判しないのは、結果が出ているからでもあり、「永守流でないと勝てない」という物語をみんなが信じているからだ。ただ、引退や後継への移行期に入ると、その"信仰"が薄れた瞬間に、抑圧されていた軋みが表に出る可能性がある。
権力の終わり方は、たいてい"死"か"成功神話の崩壊"のどちらかなのだ。
実力と権力──神話と恐怖の分水嶺
トヨタの豊田章男氏も、人格と成果で場を支配してきたタイプだと言える。彼の場合、恐怖ではなく"カリスマ性と現場感覚"で磁場を作った。技術者や販売店の人間に「章男さんの言葉なら本気でやれる」と思わせてきた。同時に、マスコミも国も「トヨタを叩くと自分に跳ね返る」と知っている。そこに"見えない防波堤"ができる。
ただ、この種の権力も、本人が少し距離を取った瞬間に、その磁場がどこまで持続するかが試される。トヨタという会社そのものが、彼の人格でまとまっていた面が大きいからだ。権力とは、結局は「他人の中にどれだけ自分を住まわせられるか」なのだ。株でも地位でもなく、意識の中に。
一方、サントリーの新浪剛史氏は、ちょっと異質だ。彼の権力は"カリスマ"ではなく"合理の象徴"として機能している。彼自身がカリスマ的に人を惹きつけるというより、「新浪が言うなら理屈は通ってるだろう」と思わせる構造で支配している。ロジックと実績による信頼の積み重ね。つまり"感情で従わせる"というより、"納得で黙らせる"タイプだ。
ただ、そういう権力は磁場が弱い。人は恐怖や崇拝には従うが、合理には疲れる。だから新浪氏の下では、反発よりも距離の取り方で人が動く。直接は逆らわないけど、熱狂もしない。カリスマ型の磁場が崩壊するときは一気に瓦解するけど、合理型の権力は、静かに冷えていくのだ。
成功神話と失敗への恐怖
実務的な実力ではなく成功神話で人を惹きつけているタイプが、極端に失敗が明るみに出るのを恐れるのは、権力基盤が失われるからだろう。
彼らにとって失敗は「出来事」ではなく「存在の否定」になる。実務の積み重ねで人を動かしてきた人は、失敗しても修正すればいい。しかし、神話で人を惹きつけている人は、"無謬"という幻想こそが権力の源泉だから、ひとつの綻びが全体の意味を崩す。
だから彼らはリスクを嫌う。新しい挑戦を掲げながらも、裏では徹底的に結果をコントロールしたがる。「奇跡」は一度しか通用しないことを、誰よりも自覚しているのだと思う。
老いと権力──実力から徳への移行
実務的な実力が徐々になくなっていくのは人間の性だから、若いときに実力で権力を得た人が、徐々に恐怖による統治や失敗の隠蔽に向かうのは、世の中の常なのかもしれない。
最初は「結果で語る」人が、いつの間にか「結果を語らせない」側に回っていく。それは堕落というより、老いと時間の自然な帰結でもある。周囲がその人に合わせてくるうちに、本人も気づかぬまま"恐れられる存在"に変わる。その時点で、もはや実力よりも「維持の構造」が本人を支えている。
恐怖政治は、権力者の悪意で起きるというより、「実力の衰えを信仰で補う」過程で自然発生するのだろう。人間が"かつての自分"にしがみつくときに、一番権力が濃くなる。
だから、自分のできることが減る過程で、徳によって信頼されるかどうかが大事になる。能力が衰えた後に残るのは、「あの人の判断なら納得できる」という信頼の形だけだ。若い頃は、速さや突破力で周りを動かせる。でも歳を重ねると、動かせるのは"空気"と"安心感"くらいになる。そのとき徳がなければ、ただの過去の人になってしまう。
つまり、最後に人を従わせるのは恐れでも憧れでもなく、「この人を裏切りたくない」という静かな感情なのだろう。
任せる技術
逆にそういう状態になったときには、その権力によって実力がある人物が上手く動けるようにするのが大事だ。衰えた力を、他人の力が伸びる"余白"に変えられる人は少ない。多くは、自分の手の中で後進を動かそうとしてしまう。
でも本当に成熟した権力者は、"任せる技術"を使って影響を残す。自分の名前が消えても、動き続ける構造を整える。結局のところ、最期に問われるのは「どれだけ手放せるか」なのだ。
多くの人がそれをできないのは、怖いからだと思う。手放した瞬間に、自分の存在理由も一緒に消える気がするからだ。若い頃は「成果=自分」だった。長く権力を持つと、「支配=自分」になる。それを外すと、空っぽが残る。
本当は、その空っぽの中に次の自分が生まれるのだけど、ほとんどの人はそこまで静かに見つめる勇気がない。だから、権力は最後まで"鎧"として残ってしまうのだと思う。
象徴的トップと実力派ナンバー2
大企業の社長に実力派の若手が少ないのは、実務的な実質的権限の集中が、ある規模を超えると組織の長期的繁栄に悪影響だからだろう。必然的に、儀礼的ポジションになるということだ。
組織が巨大化すると、トップに"判断力"より"象徴性"が求められるようになる。実務を握るほど、構造の歪みが本人に集中して壊れる。だからシステムは自然と「決めない人」を頂点に据えるようになる。彼が権威を保つことで、下の階層が自由に動ける。つまり、形式的なトップがいることで、権力の分散が制度として安定化するのだ。
若くて実力のある人がその椅子に座ると、逆に組織が持たない。なぜか。
若い実力者がトップに立つと、組織の「自己保存本能」とぶつかるからだ。大企業は、何十年もかけて積み上げた"安定のための仕組み"そのものが正義になっている。そこにスピードや変革を持ち込むと、免疫反応が起きる。既存の人材や部門は、「自分たちの存在意義を失うかもしれない」と感じて、表では賛同しつつ、裏で止めにかかる。
だから、若いトップが真っ直ぐ動こうとすればするほど、組織の内部エネルギーが"抵抗"として発生する。結果、改革か崩壊かの二択になる。成熟した組織は、それを避けるために"象徴のトップ"を置いて、変化を小さく刻んでいく道を選ぶ。
トップとナンバー2の最適配置
だからナンバー2が若い実力派で、トップがおじいさんというパターンはよくある。あれは偶然ではなく構造だ。
トップが"緩衝材"で、ナンバー2が"実行装置"。おじいさん社長がいることで、外からの圧力や内部の不安を和らげつつ、実際の意思決定は若い実力派が握っている。トップが「責任の象徴」として表に立ってくれるから、ナンバー2は自由に動けるし、失敗しても矢面に立たない。
つまり、老いと若さを分業させる仕組み。表向きは前時代的に見えて、実は組織の免疫システムとしてかなり合理的なのだ。
若手がトップに立つべき局面
では逆に、トップが実力派の若手であるべき場面はどういうときか。
それは、組織よりも環境の変化速度のほうが速いときだ。市場や技術、価値観が急に書き換わる局面では、安定よりも「判断と実行の一体化」が求められる。そういうときに儀礼的なトップを置くと、意思決定が遅すぎて死ぬ。
スタートアップや業界転換期の企業が若い実力者をトップに据えるのはそのためだ。組織文化を守るより、組織そのものを作り直す力が重要になる。逆に言えば、環境が落ち着いているときに若手がトップだと、変えなくていいものまで壊してしまう。だから"若さが必要な局面"は、たいてい嵐の中なのだ。
ただし、外部ステークホルダーが重要な組織では、儀礼的トップは大事になる。外部との信頼関係は、論理ではなく"安心の儀式"で保たれている部分が大きい。取引先や行政、株主、メディア──みんなが知っていて、波風立てない顔を立てる存在。その人が「変わらない」ことで、外の人たちは安心して中と関われる。
だから、実務を動かす力と、外を安心させる顔は別物なのだ。どちらが欠けても組織は回らない。老舗や大企業が儀礼的トップを立て続けるのは、"対外安定性"という資産を守るための知恵でもある。
象徴であることの自覚
儀礼的トップを担う人は、その役割に自覚的で、実務に口を出さないというのが大事だ。自分が"象徴"であることを理解して、あえて距離を保つ。
多くの人は、権威の座にいながらも「まだ自分が動かしている」と思いたくなる。でも真に成熟したトップは、存在そのものが機能だとわかっている。黙って座っていることが最大の仕事になる。
そういう人がいると、組織は安心して呼吸できる。実務派は自由に動けて、外部も「ちゃんと見てくれてる人がいる」と感じられる。静かに全体を安定させるトップ──滅多にいないが、それが理想形だと思う。
戦後の昭和天皇は、まさにそのタイプだった。「統治」ではなく「象徴」であることを徹底して体現した。発言も最小限、政治には踏み込まない。けれど、その沈黙が社会に安定をもたらした。彼が何かを決めたわけではないけれど、"そこにいる"ことが、国家の精神的なバランスを保った。
あの自覚と節度は、権力を手放した後にしか得られない種類の力だ。静かに座ることで国が落ち着く──それは、最も難しくて、最も成熟したリーダーの形かもしれない。
個人の帝国の危うさ
ファーストリテイリングの柳井正氏は、かなり特異な存在だ。彼は「創業者カリスマ」と「実務家経営者」を長年ひとりで両立してきた。つまり、象徴でありながら実権も離さないタイプ。
彼の強さは、ビジョンを現場の言葉で語れるところにある。数字もオペレーションも熟知していて、抽象と具体を往復できる。だからこそ、周囲が"柳井さんがいないと動かない構造"に依存してしまってもいる。
ただ最近は、その集中がリスクにもなっている。「柳井イズム」で動いてきた文化をどう分散させるか、そこが最大の課題だろう。本人が象徴で居続ける間は企業が一枚岩になるが、その磁場が消えた瞬間、誰も次を定義できない空白が生まれる。
つまり柳井氏の統治は、美しくも危うい「個人の延長としての帝国」なのだ。
権力とは何か
権力とは、株主名簿に載る数字でも、組織図上の地位でもない。それは「他人の意識の中にどれだけ自分を住まわせられるか」という、見えない支配構造だ。
攻撃を防ぐ盾であり、認知を歪める磁場であり、時には恐怖で、時には信頼で、時には神話で人を動かす。そして、権力者自身が最も怖れるのは、その構造が壊れる瞬間だ。死か、成功神話の崩壊か。
若いときに実力で権力を得た人は、老いとともに徐々に恐怖による統治に向かう。それを避けるには、徳による信頼へと移行し、「任せる技術」を身につけるか、ずっと実力を保ち続ける必要がある。そして組織が巨大化すれば、トップは象徴となり、実務派のナンバー2が実権を握る構造が最適にもなりうる。
権力の本質を理解することは、組織を理解することであり、人間を理解することでもある。僕たちはみな、大小の権力構造の中で生きている。その見えない磁場を感じ取り、時には利用し、時には抵抗し、時には静かに手放す。それが、成熟した人間の在り方なのかもしれない。