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2025-10-12
#雑記

「すごい人と飲む」ことに喜びを感じるタイプの人と会った

二つの喜びが交差する場所

先日、「すごい人と飲む」ことを心から喜びに感じているタイプの人と会った。その人は、著名な人物と会って飲んだことに対して、純粋に喜びを感じているようだった。

そしてこれは僕自信の経験から分かることなのだが、「すごい人」側もまた、「サシで飲みたいです」と言われることに喜びを感じるのだ。

なぜなら、何かの分野で成果を上げ、祭り上げられている人物ほど、孤独になっていくからだ。肩書きや成果で囲まれている人ほど、「人としての自分」に向けられる興味に飢えている。

仕事に関する評価や期待ではなく、ただ一緒に時間を過ごしたいという気配。それが実際には、仕事上の打算的考えから発されている言葉かもしれないと思ったとしても、一旦はそれを信じてみたいと思うほどに、他者からの純粋な関心を向けられる体験に飢えているのだ。

「すごい人と飲めた」ことを純粋に喜ぶ側と、「仕事上の成果や期待を向けられることに疲れている」側。その接点には、意外と健全な人間的欲求が双方にあるのだ。

僕自身の価値観

ただ、正直に言えば、僕自身は「すごい人」とお酒を飲むこと、食事を共にすることに、あまり魅力を感じない。

その人がすごい人であろうとなかろうと、話が面白い人は面白いし、面白くない人は面白くない。

「すごい」というラベルがついた瞬間に、目の前の人間性がぼやける。話の深さやユーモア、波長の合う合わないは、肩書きとはあまり関係がないことが多い。これは、「すごい人」と対面したときに、多くの人がその肩書き的すごさを前にして、つまらない自分になってしまうことも関係しているのかもしれない。 むしろすごい人と飲むことに価値を感じる空気があると、そこで生まれる会話も型にはまりやすい。相手を理解するより、相手に「よく見られる自分」を演じがちになる。

誰もが持つ自己正当化の欲求

ここで重要なことは、僕自身もまた、自分自身に対してある種の自己肯定的な評価をしたいというバイアスを持っているということだ。

つまり、「いかにもすごい人を、ただすごいだけで評価する自分ではない」という自己イメージを保ちたいという欲求が、僕の中にもある。

他人の「すごさ」に反応しない自分でいたいというより、自分の軸で価値を感じ取れる自分でいたいし、そのような人物であると見られたい。誰かをすごいと感じるのは自然なことだが、その感じ方が他人の評価基準に引っ張られていないかを、ちゃんと見張っていたい。そういう自意識の静かな緊張感が、僕の中にはある。

しかし、これもまた一つの承認欲求なのだ。「すごい人をありがたがらない自分でありたい」という感情もまた、他人からどう見られたいかという社会的欲求の現れに過ぎない。

僕もそういうことがあるが、人間は自分の立ち位置を正当化するために誰かを持ち上げたり下げたりしてしまう。 結局はみんな、自分の選んだ価値観の中で安心したいだけなのだ。

そして、ここで僕が主張したいのは、誰もが自分がやっていることに対して、肯定的な目線を持ちたいと思っているからといって、他人を揶揄する必要はないということだ。

「すごい人と飲むことを喜ぶ人」も、「肩書きではなく中身を見る自分を保ちたい人」も、どちらも自分なりの方法で世界と関わろうとしているだけだ。そして、どちらも何らかの承認欲求を抱えている。

自分の承認欲求を認識できたとき、他人の承認欲求に対しても少しだけ寛容になれる。そして、自分の価値観を静かに保ちながら、他人の価値観も尊重できる。その距離感が、心地よい人間関係を作るのかもしれない。