銃口を突きつけるコミュニケーション
先日、地方で新しい事業を始めようとしている友人から興味深い話を聞いた。
「役所への許認可申請って、まるで取り調べを受けているみたいなんですよ。『前例がない』『リスクがある』の連続で。結局、当たり障りのない形に修正して通したけど、もう革新的なことはやりたくないって思っちゃいました」
彼の話を聞きながら、銃口を向けるコミュニケーションという言葉を連想した。強大な権限を持つ側が、事前の対話や説明なしに一方的にその権限を行使すると、相手は萎縮してしまう。まさに友人が経験したのは、この種のコミュニケーションだったのではないか。
強い権限が生む萎縮効果
日本の行政機関、特に警察、検察、金融庁、国税庁といった強い権限を持つ組織は、確かに治安や秩序の維持に不可欠な役割を果たしている。しかし同時に、その権限の行使の仕方によっては、民間の自由な発想や革新的な試みを萎縮させてしまう側面がある。
ある地方自治体の職員が打ち明けてくれた話が印象的だった。
「イノベーティブな提案を通すより、『前例がありません』と断る方が100倍楽なんです。通して失敗したら自分の責任。断っても誰も文句を言わない」
これは個人の資質の問題ではなく、システムの問題だ。減点主義の評価制度の下では、新しいことに挑戦して失敗すれば大幅減点。でも成功しても特に評価は上がらない。給料も変わらない。だったら、リスクを取らないのが合理的な選択になってしまう。
保護主義が生む画一化
日本社会は個人、特に弱者的な自己判断能力を持たない主体の権利保護を重視し、業者側に重い責任を負わせる構造になっている。これ自体は消費者保護の観点から重要なことだと言われている。
しかし、その結果として起きているのが、サービスの極端な画一化や二極化、そして海外産のサービスと比較して不自由でつまらない、そしてコストも高いサービスばかりが生まれる状況だ。
重い責任を負う以上、高いマージンを取らなければ、事業として成り立たないのだから当然と言えるし、サービスとしての良さよりもコンプライアンスにエネルギーを使うことになる以上、差が生まれるのも当然と言える。
さらにタチが悪いのは、海外事業者には行政の法執行権限が実効的に及ばないことが多く、結局脱法的、あるいはそこまではいかずとも脱国内秩序的なサービスを提供する事業者は、野放しにされて国内の日本人に普通にサービスを提供し続け、ある意味での温室育ち・国内規制特化のガラパゴス化した、海外での競争力をもはや持たないサービスのみが、日本産サービスとして生き残っていくことだ。
その最たる例として、銀行は画一的なサービスに終始し、どこも似たような商品ラインナップになっている。証券会社なんかも、「超保守的な大企業系」と「コンプライアンス無視の冒険系」に極端に分かれ、後者のような企業は時折不祥事で話題になっている。中間の「健全な実験」をする余地がないのだ。 Youtubeで有名起業家として話題になっている人たちが、なぜあんなにも目立ってなんぼ的な荒くれ者たちばかりなのか。それは、そういう人たち以外、目立つメリットがないからだ。
この二極化は、強い規制の下で生き残るための適応の結果とも言える。規制を完全に守って画一的になるか、規制を無視して大きなリスクを取って自由にやるか。その間の「規制と対話しながら新しいことを試す」という選択肢が、実質的に存在しないのだ。
表向きには対話を重視すると言っている当局に対して、過去に銃口を突きつけられ、ときに銃弾を浴びせられた記憶を持っている企業たちは、その言葉を信頼できるはずもない。銃を撃った側は、自分の行いを大義名分とともに正当化して忘れ去っているかもしれないが、銃弾を受けた側はその痛みをよく覚えている。
そして権限と責任はセットと言うが、この点もまた日本の行政においては成り立っていない。行政機関の職員は、実名でその成功や失敗をさらされることもなければ、それによって本人の待遇が変わることもない。
これは実業の世界で何か大きなことをやろうとすれば、実質的な経済的利害は当然として、実名を出すこと、すなわち社会的な名誉をリスクに晒すことが当然に求められることとは対象的だ。
国民が選んだ構造
しかし、ここで不都合な真実と向き合わなければならない。
この減点主義と画一的報酬のシステムは、実は僕たち国民自身が選んでいる結果なのだ。
思い返してみてほしい。学校で目立つ子がいじめられたり、会社で新しいアイデアを出す人が煙たがられたり。「出る杭は打たれる」という言葉が、これほど日常的に使われる国も珍しいのではないか。
僕たちは「みんな同じ」であることに安心感を覚える。隣の人が自分より成功することが許せないという人があまりにも多い。リスクを取って成功した人を、どうせ狡いことをしたのだろうと蔑む。
政治家は有権者の鏡だ。彼らは当選するために、僕たちの平均的な価値観に合わせて行動する。もし政治家が「公務員の給料を成果に応じて変動させ、場合によっては数億円まで出すことにします」と言ったらどうなるか。おそらく「不公平だ」「えこひいきだ」という批判が噴出するだろう。
被害者意識の連鎖
さらに複雑なのは、「銃口を向けられる」ような体験を繰り返してきた人々が、強い被害者意識を抱くようになることだ。
一度萎縮させられた経験を持つと、その後のコミュニケーションでも防御的になる。そのような態度をとる周辺にいるコミュニケーション相手は、「腫れ物に触るような」配慮を求められ、率直な対話が困難になる。これは個人間でも、組織間でも起きる現象だ。
行政と民間の関係でも同じことが起きている。過去に厳しい指導を受けた企業は、行政に対して過度に防御的になり、本来必要な対話すら避けるようになる。一方、行政側も「また問題を起こされたら困る」という意識から、より厳格な態度を取る。この悪循環が、さらなる萎縮を生んでいる。
時間という不可逆的な資源
僕たちの人生は、時間という不可逆的な資源の消費の記録だ。
役所の窓口で萎縮しながら過ごす時間も、前例踏襲の会議で消費する時間も、二度と戻ってこない。その時間を、もっと創造的で、もっと自由な活動に使えたら、社会全体がどれだけ豊かになるだろうか。
しかし現実には、多くの時間が「怒られないため」「前例から外れないため」「やっているというためにやる仕事」に費やされている。これは個人にとっても、組織にとっても、社会全体にとっても大きな損失だ。
この構造を変えるには、制度と文化の両面からのアプローチが必要だ。
制度面では、加点主義の導入が考えられる。成功したら評価が上がり、報酬も増える。失敗しても、手続きが適正であれば減点しない。このようなセーフティネットがあれば、挑戦へのインセンティブが生まれる。
しかし、最も重要なのは僕たち自身の価値観の変化だ。失敗を恐れず、挑戦する人を応援する。成功者を妬むのではなく、そこから学ぶ。多様性を受け入れ、「みんな違ってみんないい」を真に実践する。
馴れ合いのような生ぬるい空気の中での多様性ではなく、はみ出しものを真に受け入れるのだ。受け入れるというのは、別に賛同して仲良くせよということではない。自分とは異なる人であっても、別に存在してよく、否定も肯定もしないという態度を取ることもまた、受け入れことだと言える。それは表面的で打算的な賛同の姿勢よりも、本人に対してずっと強く、受け入れられているという感覚をもたらす。
おわりに
役所の窓口で感じるあの萎縮感。それは、僕たち自身が作り出した社会構造の表れなのかもしれない。
行政を批判するのは簡単だし、その批判はある視点から見た一つの真実と言えるだろう。しかし、彼らもまた同じシステムの中で生きている。減点主義という見えない檻の中で、最適な行動を取っているに過ぎない。
この檻を作ったのは僕たち自身で、この檻を壊せるのも僕たち自身しかいない。 銃口を向け合うのではなく、対話を始める。それが変化の第一歩になるはずだ。