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2025-04-08
#雑記

”心理的安全性”の重要性を主張する人物が持つ暴力性

“心理的安全性”という言葉がある。僕はこの言葉が苦手なのだが、偶然自分の人生を振り返る機会があり、なぜそれが苦手なのかを最近よく理解できた。

一般論として、この言葉が招いている誤解や本来的な意味合いについては、色々なネット記事、書籍で解説されているので、あらためて僕がここで長々と解説するまでもない。

端的に言うと、「心理的安全性というのは、別にみんながお互いに馴れ合いをし合いながら、緊張感がない状態で仕事をすることではない。むしろ、その環境が、お互いの意見に対して反対意見を述べやすい状態に保たれてい流ことを指す。」というのが、本来の語義であるという説明が多い。

馴れ合いを許す大義名分として使うべきではないという話であり、成果に対する一定の緊張感を持って日々仕事をしている人を中心に、共感できる人は多いかもしれない。

「心理的安全性」はなぜ混乱を招き続けるのか | Q by Livesense
心理的安全性という概念がある。ここ十年ほどチームづくりの最重要ファクターであるともてはやされ、他方では粗雑な理解によって批判されてきた。急に人気の出たアイドルの宿命みたいなものを背負っている。
q.livesense.co.jp

僕もそのような論に賛同しているひとりだが、今日はその話ではなく、なぜ僕が”心理的安全性”という言葉にそこまで嫌悪感を覚えてしまうのかをまとめたい。

帰りの会の場での合意形成

結論として、なぜ僕が”心理的安全性”という言葉が苦手かを端的に言うと、被害者性をまとった人物が、抽象度が高い言葉を使って他者を非難する行為は、強い暴力性を持っているからだ。

まるで小学校でクラスの声が大きい子が、帰りの会(僕の校区では、いわゆるホームルームをそう呼んでいた。)の時間に、xxくんは酷いことを言っていて、かわいそうだと思いました。などと主張して、それに共感する仲間たちがxxくんに対して一斉に非難の目を向けるような場面と同じようなグロテスクさを感じるのである。

僕自身、中学、高校、大学と色々な場面で、明らかに成果が出ないであろう意見が、抽象度が高く、一見するとその場にいる人にとって利益的であるがゆえに気持ち良く聞こえ、その場の総意として通っていく様を何度も見てきた。

それは自分がリーダーとして振る舞っている場面で、その場のメンバーが被害者的に振る舞う場合についてもそうだし、逆の立場でもそうだった。

話を”心理的安全性”に戻すと、この言葉を使って他者に対して、それを損なう振る舞いをしているとして非難する行為がまた、”心理的安全性”を損なう行為なのではないかと思うのだ。

心理的安全性の大切さを主張する人が抱える自己矛盾

「心理的安全性」の重要性を訴える人自身が抱える自己矛盾について考えてみたい。

心理的安全性とは本来、お互いが安心して本音や批判的意見を述べられる環境のことである。しかし実際には、この言葉を強く主張する人自身が「心理的安全性を脅かす存在」を批判する際に、被害者という立場を強調することが少なくない。これは、自分が被害者であるという立場を武器にして、他者に対して「あなたは私の心理的安全性を損なっている」と指摘し、相手の発言や行動を封じ込めてしまう行為にほかならない。

こうした振る舞いの問題点は、自分が被害者であるという立場を抽象度の高い「心理的安全性」という言葉で覆い隠すことで、本質的には他者の発言権を奪い、相手が安心して率直に発言できる場を失わせることにある。つまり、「心理的安全性」を守ろうとする行為自体が、逆説的に他者の心理的安全性を著しく破壊しているのだ。

この自己矛盾が生じる背景には、「心理的安全性」という言葉の抽象度の高さや曖昧さがある。あまりにも抽象的であるために、被害者的に振る舞う側が「心理的安全性が損なわれた」と主張した場合、周囲は具体的に反論することが極めて難しくなる。この状況下では、「心理的安全性」という概念が、本来の目的とは逆に、相手を非難し、口を封じるための暴力的な手段として機能してしまう。

この自己矛盾から抜け出すためには、「心理的安全性」の本来の意図――つまり相互に建設的な意見交換を促進すること――を徹底的に意識し、その概念が他者への非難や自己防衛の道具になっていないかを、常に自己検証する必要があるだろう

極めて強力な要求になりうるがゆえに多用してはいけない言葉

「心理的安全性」のような抽象度が高く、それ自体が絶対的に正しいように見える概念は、極めて強力な要求として機能するため、安易に使ってはいけない。そのような言葉を盾にして他者を批判すると、周囲からの反論をほぼ完全に封じ込めることが可能になり、その力を自覚しないままに濫用すると、本人の意識に反して非常に暴力的なものになりかねないのだ。

例えば次のような主張がある。

  • 「心理的安全性が損なわれている」
  • 「市民としての権利が侵害されている」
  • 「多様性が損なわれている」
  • 「人権が尊重されていない」
  • 「持続可能性が軽視されている」
  • 「インクルージョン(包摂性)が不足している」
  • 「透明性が担保されていない」
  • 「説明責任(アカウンタビリティ)が果たされていない」
  • 「公正さが欠けている」
  • 「倫理観が欠如している」

これらの言葉は、表面的には道徳的に完璧であり、絶対的に正しいものとして扱われやすい。そのため、「あなたの言動は○○を損なっている」と指摘された人が、事実を冷静に見極めて反論をすることは極めて困難になる。なぜなら、そうした反論をした途端に「倫理的に疑わしい人物」「共感力のない人間」として扱われる危険が伴うからだ。

しかし実際には、これらの主張は度合いや文脈によっては明確に間違っていることもある。例えば、「透明性が担保されていない」としてすべての情報を無条件に公開すべきだと主張する人がいるとすれば、それは状況次第で組織の安全や個人のプライバシーを侵害する行為にもなりうる。「多様性の欠如」についても、多様性を絶対化してあらゆる意思決定をストップさせることが本当に正しいのかどうかは疑わしい。「人権の尊重」も重要だが、すべての行動を人権という言葉で無制限に制限することが必ずしも妥当であるとは限らない。

このように、抽象的で絶対的に聞こえる言葉は、それ自体の正しさゆえに慎重に取り扱わねばならない。こうした言葉を多用する人物は、その主張に同意できない者を「道徳的に劣った存在」とみなすことで、自らの権力を暴走させ、結果的に周囲を抑圧し、自由な議論を阻害する暴力的な存在になりかねない。本人にその自覚がなければないほど、周囲から見ると非常に危険で恐ろしい人物に映るだろう。

抽象的な言葉で他者を批判する行為の暴力性

「被害者」というポジションは、その性質上、非常に強力な立場である。その強さは、自らの主張に対して道徳的な優位性が自動的に付与されることから生まれている。この立場に立って抽象度の高い批判を他者に向ける行為は、本人がそれを意識しているか否かに関わらず、極めて暴力的な力を持ちうる。

例えば、あるチームメンバーが「自分の心理的安全性が侵害された」「多様性が尊重されていない」「人権が軽視されている」などと抽象的な批判を投げかけたとき、その場にいる他のメンバーは、内容の具体性が乏しくても容易に反論することができなくなる。なぜなら、反論した瞬間に、その人自身が道徳的に「被害者を抑圧する側」へと立場が転換され、社会的にも強い非難を浴びるリスクがあるからだ。

こうした批判が持つ本質的な暴力性を理解しないまま、無自覚にこのような抽象的批判を繰り返していると、最終的にはチームから排斥される可能性が高くなる。なぜなら、周囲の人々はやがて、その人物が持つ「正義」の名を借りた暴力性や、無制限に道徳的優位性を主張する傾向に疲弊し、距離を置き始めるからだ。本人はあくまでも「被害者」のつもりかもしれないが、周囲にとっては「権力を乱用する危険人物」として映ることになる。

したがって、「被害者」という立場の強力さを認識し、自分が道徳的に絶対的な正しさを主張している時ほど、抽象的な言葉の暴力性を自覚的にコントロールする必要がある。そうしない限り、良好なチーム関係や対人関係の維持は極めて難しくなるだろう。

まとめ

この記事では、「心理的安全性」という概念、そしてそれに似たような普遍的正しさを持つとされる概念をめぐり、それを使って被害者的に振る舞って他者を批判する行為がいかに暴力的であり、無自覚な権力の行使となり得るかを論じてきた。

重要なのは、このような暴力性は決して悪意のある人だけが行うものではなく、むしろ一定以上の知的賢明さを持ち、善意や正義感に溢れる人物ほど陥りやすいということだ。彼らは抽象度の高い道徳的に正しいとされる言葉を使うことで、自分が無意識のうちに他者の発言や行動を抑圧していることに気がつかない。

そのため私たちは、心理的安全性のような抽象的な概念を使う時ほど、自分自身の言動を丁寧に点検し、謙虚さと注意深さを保つ必要があるだろう。なぜなら、真の心理的安全性とは、自分の被害者性を主張することによって他者の自由な発言を抑え込むことではなく、あくまでも建設的で率直な意見交換ができる環境を守ることだからである。