社長の会食にケチをつける社員
ニュースを眺めていると、商品券問題というトピックが流れてきた。
現職の総理大臣が、会食後に配った10万円相当の商品券について、けしからんということだ。
僕は本件についての適法性の判断はできないが、まず第一印象として「社長の会食に、末端の一社員がケチをつけている」ような印象を受けた。
各種メディアでは、視聴者・読者からアンケートをとって、本件に対して納得しているかなどと聞き回っているようだが、僕の目から見ると全くナンセンスで、こんな問題を大袈裟に取り上げて大きな問題化しているようでは、総理大臣という重大な職務の遂行がままならないように思う。
もちろん、そういった各論的な問題が大衆から叩かれるかどうかも含めて、総理の器だという主張も分からなくはないが、それは構造的な問題を置き去りにした極論である。
現代では、大衆がSNSやネットメディアを通して情報を容易に発信できるようになっており、個人が極めて強くエンパワーされている。そういった中で、総理大臣や国会議員を務める人物たちのひとつひとつの行動を逐一大衆に評価させれば、政治は単なるポピュリズム政治的な様相に陥るだろう。
民主主義的プロセスは民のレベルと政治のレベルを一致させる
民主主義的な意思決定が中長期的に社会全体を良い状態に導くものとして機能するためには、大衆側にも一定の自制心が求められる。
すなわち、自分自身が政治家の個々の行動を正確かつ公正に評価するための十分な情報や知識、教養を必ずしも備えていない可能性を認識する『メタ認知』が必要となる。もしこうした自己抑制や謙虚な姿勢を欠いたまま、個々人があらゆる行動を逐一評価・批判し続ければ、政治家は単に短期的な人気や大衆の感情を満足させることだけを重視するようになり、政治全体が本質的な問題解決から離れ、ポピュリズム的で表面的なパフォーマンスに終始してしまうだろう。
たとえば、YoutubeやXでは、視聴数やいいねを増やすために、あえて派手な企画や誇張した表現を使う人がいる。視聴者は深く考えずに『面白そう』『目立っている』という理由だけで評価する傾向があるためだが、すべての視聴者が、『この情報は本当なのか?』とか『派手なだけで中身がないかもしれない』と冷静に考えることをやめてしまったら、配信者はますます『注目されやすい』けれど『内容が薄くて本質的でない』動画や投稿ばかりを作るようになってしまうだろう。政治においても、同じようなことが起きる可能性がある。僕たちが政治家の言動を評価する時、『自分が本当に理解できているのか』を意識しないまま感情や印象だけで判断し続ければ、政治家も人気や注目ばかりを追い求め、本質的な問題を解決しなくなってしまう。
一方で、僕自身このような意見がそもそも受け入れられづらいことを自己認識している。その理由は以下のようなものだ。
1. 直感的に分かりにくい
民主主義は「誰でも意見を言えることが素晴らしい」と個々人が直感的に感じやすい。なぜなら、各個人は、自分の意見が全体に反映されない、つまり全体の意思決定において、自分自身の利害に対する配慮・調整がなされることを好み、そうでない状態を嫌うからだ。「自制心を持ち、自分に評価能力が不足していると認めるべき」という主張は一見すると民主主義の精神に反しているように感じられてしまうことがあるため、理解されづらい。
2. 感情的な抵抗感が強い
自らの意見や評価に対して客観的に疑問を抱くこと、つまりメタ認知には一定の精神的負担が伴う。人間はもともと「自分の意見が正しい」と信じたい心理的傾向(自己正当化傾向)を強く持っているため、抵抗感や反発が生じやすい。
3. 世論の主流とは異なる
現代ではSNSやネットの普及により、「一人ひとりの意見こそ重要である」という考えが広く共有されている。こういった環境では、「十分な情報や知識がない人はむやみに評価すべきでない」という主張は、特に強い反発を招きやすい傾向がある。
4. 教養がない
残念ながらほとんどの人は、政治的な主張に対して自身の意見を持てるだけの歴史、経済、自然科学、法律といった分野に対する基礎教養を持っておらず、他者の意見に対して冷静にその妥当性を判断すること自体ができない。そして、教養のない人ほど、自身が教養を持たないことに対する自己認識を持ちにくい。これはなにも、自分は教養があると思い込んでいる場合だけに過ぎず、過度に自分が無知であると思い込む場合も含む。
自分の実力を正しく測るためには、自分自身が一定の実力を身につける必要がある。スポーツをやったことがある人なら、そのスポーツについてある程度の経験を持つ自分から見て、素人の意見がナンセンスだと感じたことがあるのではないか。
任せたのに任せきれない上司と民主主義
企業における上司と部下の関係にも、似たような構造がある。企業において、一般に部下に仕事を任せる際、「任せたなら任せきる」という考え方はマネジメントの基本とされる。なぜなら、任された側が責任を持って自律的に動くためには、任せた側が細かく干渉せず、大きな方向性において信頼を示すことが必要だからだ。逐一細かい行動を監視して口を挟んでしまうと、部下は萎縮し、目の前の問題や失敗を恐れるようになる。結果として本質的な成果を生むことよりも、「いかに上司の機嫌を損ねないか」に注意を向けるようになる。これはマネジメントの失敗例として典型的なものである。
民主主義社会においても、同じ構造が成り立つ。国民は選挙によって自分たちの代表を選び、その代表に政治を任せることになる。しかし現実には、多くの国民が代表者である総理大臣や政治家のひとつひとつの細かな行動に目を向け、それが気に入らなければ逐一批判を加えるという態度に陥りやすい。もちろん民主主義は国民の声を反映する制度であり、代表者の上司は国民全員と言える。一方で、その目的は個々の小さな行動を監視することではなく、「任せた以上、大局的にどのような成果をもたらしたのか」を評価することである。
こうした姿勢を持つには、やはり「任せる」ということがいかに難しく、同時に重要なことであるかを知る経験が欠かせない。小さなチームであっても、自分自身がリーダーとして振る舞った経験があれば、人に任せるということの本質的な難しさを理解できる。任せた側が「これをやれ、あれをやるな」と細かく口出しするようでは、任された側はやがて主体性を失い、目先のミスを恐れるばかりで、本質的な成果を出せなくなることを実感できるだろう。
このような経験を通じて、僕たちは「任せたなら任せきる」という心持ちを学び、その重要性を民主主義社会にも応用できるようになる。反対に、こうした感覚を持たずに、逐一細かな行動に口出しばかりすることは、必要以上に部下をマイクロマネジメントする上司と同じような失敗を生むことになるのだ。
そして残念ながら、主体性を持って何かに取り組み、批判を恐れずにリーダーシップを発揮した経験がある人はとても少ない。
社長の会食にケチをつける社員
リーダーの瑣末な問題に着目しすぎることの問題を、別の観点から考えてみよう。ある会社の社長が、大切な取引先との会食を行ったとする。その会食には多額の費用がかかり、料理も一流レストランの高級なメニューばかりである。その話を聞いた一人の社員が「そんな贅沢は必要ない」「会食費用はもっと節約すべきだ」などと強く批判したとする。これは一見もっともらしく聞こえる意見だが、実際には非常にナンセンスである。
なぜなら、その社員は会社全体の経営戦略や会食の相手方との取引の重要性を理解していないからだ。会食は単に食事を楽しむ場ではなく、会社の将来を左右する大きな意思決定や関係構築のために行われることが多い。末端の社員がそのような背景を知らずに、費用や料理の細部だけにこだわって批判するのは、組織全体の視点から見れば的外れな指摘にしかならない。また、そういった組織全体の文脈を、すべての社員がよく理解できるように情報を適切に共有すべきという主張も、聞こえはいいものの普遍的にあらゆる場面で成り立つものではない。
政治においても同様の状況が起きていて、総理大臣や国のリーダーが重要な交渉や政策決定を進めるために様々な活動を行うが、しばしば一般の人々はその行動の表面的で細かな部分に目を奪われてしまう。例えば、リーダーが行った会食や移動手段、使った費用などに対して批判を集中させることがある。これは、「社長の会食にケチをつける社員」と同じ構図であり、本質的な問題や目的を理解しないまま瑣末な問題に注目してしまうことから起きる愚かさである。
もちろん、税金が適正に使われているかを監視することは大切だが、民衆が細かな振る舞いにばかり目を向けて批判を繰り返せば、政治家もまた大きな戦略や長期的な政策ではなく、小さな振る舞いや表面的な印象を重視せざるを得なくなるだろう。すると政治は本質的な問題解決から離れ、「ポピュリズム」と呼ばれるような大衆迎合的なパフォーマンスへと堕落していくことになる。
僕たちは、「自分がその行動を評価できるだけの情報や視野を持っているのか」というメタ認知を持つ必要がある。さもないと、組織の社長が会食をしただけで「けしからん」と言い続ける社員のように、結果的に自分自身がナンセンスな指摘を繰り返していることになってしまうだろう。
まとめ
今回は、総理大臣の会食に関する商品券問題を出発点として、民主主義社会における「任せる」ことの重要性と、過度な監視や批判が引き起こす弊害について論じた。
民主主義は国民の声を反映する制度だが、個々の細かな行動の監視ではなく大局的な成果を評価することに重点を置かなければ、単なるポピュリズム的な政策偏重に陥ってしまうだろう。個々人が適切なメタ視点を持ち、自分の持つ情報や視野の限界を理解することが、健全な民主主義社会の維持には不可欠だと言える。