財務省解体は日本を良くするのか
財務省を解体せよというデモが霞ヶ関で取り行われている。現政権や官公庁に対してこのような直接的な批判を行うデモは日本ではそこまで頻繁には見られない現象だ。このデモに参加している人々がどれほど状況を理解しているか、その主張に合理性があるかはさておき、ここには確かに新しい風が吹いている。
https://www.sankei.com/article/20250228-3WBO6PV4LNDV5PDLRMYS7FBHYA/
解体を叫ぶ声から感じる新しい風
直近の某テレビ局の不祥事、某自動車会社の買収騒動などを見ていて僕が感じることだが、日本の権力者が異常なまでに長く地位にしがみつき、70代や80代になってもその地位を手放さず、世代交代が進まない真の原因は、逆説的で皆が受け入れたくない事実にある。それは彼らへの報酬があまりにも少なすぎるからだ。
財務省はただの標的というよりも、影響力に見合わない低報酬、厳格すぎる倫理規範、そして世代間バトンタッチの欠如という、日本全体が抱える構造的問題の象徴だと思う。これはむしろデモに参加している人々とは逆の考え方だが、財務官僚をはじめとする日本の中央官庁で働く人の報酬水準はあまりにも低すぎる。
そして財務官僚の低報酬に代表されるように、日本社会は平等の名のもとに、実は新陳代謝を徹底的に阻害する仕組みを作り上げてしまったのである。
なぜ今、財務省解体を求める声が上がったのか。表面的には近年の経済政策の失敗や官僚機構の硬直性が原因に見える。しかし、より本質的には、日本社会全体に蓄積された「変わらなさ」への苛立ちが爆発したのだろう。デモの参加者たちは、無意識のうちに権力の循環不全—に対して声を上げている。彼らの解体要求は、個人としては単なる感情的反応であるかもしれないが、俯瞰的に見ると、合成の誤謬が良い方向に働いた結果としての、機能不全に陥った組織に対する合理的な対応ですらあり得る。
社会の改革には通常、内部からの漸進的変化と外部からの急進的変革の二つの道がある。しかし日本の現状は、内部からの自浄作用が残念ながら機能停止しているため、外部からの破壊的変革こそが唯一の合理的選択肢となっている。財務省解体デモはその意味で、日本社会の深層構造を変える可能性を秘めた重要な現象と言えるかもしれない。
権力者がその地位を譲らない理由
影響力と報酬の致命的不均衡
さて、官公庁引退後の天下りを批判される官僚に限らず、テレビ局や大企業の経営陣までもが70代になっても権力の座に留まり続ける理由はなんだろうか。答えは単純で、現職の強い影響力を持つ立場にいる人物の地位や収入が著しく低いからである。
大企業の経営者でさえ、年間報酬は3,000-5,000万円程度、超大企業でようやく1億円に達する。そして公務員であれば、中央省庁の官僚ですら800-1,000万円もらっていれば悪くない方であろう。この報酬水準では、持つ影響力に見合った対価を得られず、権力の座を手放す動機が生まれない。シンプルに、働き続けなければ生活できないのである。
米国の大企業CEOが数十億円を稼ぐ一方で、日本の経営者は米国の10分の1程度の報酬も得られない。この差が、権力の循環に決定的な影響を与えている。
さらに、権力者たちがその座を譲らない理由は、単純な金銭欲だけではない。現在の地位から得られる影響力と、それを失った後に待つ「普通の生活」のギャップがあまりにも大きいからだ。高齢になっても退任しない経営者や官僚は、権力の喪失と同時に社会的存在感も失うことを恐れている。彼らの多くは、現役時代に蓄積した人脈や影響力を、退任後も「顧問」「相談役」といった形で維持しようと試みる。しかしこれが組織内に「二重権力」を生み出し、真の世代交代を妨げる原因となっている。
「合法的な権益循環」という巧妙な腐敗
一方で、興味深いことに、国際的な腐敗指数では日本は非常にクリーンな国として評価されている。しかし、この数値が示す表面的な清廉さの裏には、より巧妙で根深い問題が潜んでいる。日本社会では「xx氏がいるaa会社に仕事を回す」という形で、人と人のつながりによる権益の相互循環が日常的に行われている。
あなたもそういった場面に出会したことがあるだろうし、あなた自身もそのような権益の循環、利権構造に助けられている。これは日本社会で生きている限り、残念ながら間違いなくそうであると言える。これらは贈収賄のような明確な腐敗行為ではなく、むしろ「正当なビジネス関係」「人的ネットワーク」として社会に受容され、巧妙に隠蔽されている。
ここに日本社会の構造的な自浄作用の働きづらさの原因がある。この「合法的な権益循環」は、賄賂のような明確な腐敗よりもはるかに解消が難しい。なぜなら、それが「不正」ではなく「正当な関係性」として社会に受け入れられているからだ。批判すれば「人間関係を大切にしない冷たい人間」、「別に何も悪いことはしていないのに、ちょっと変なことを言ってる人」というレッテルを貼られ、その権益の相互贈与は「信頼関係」という名の下に正当化される。形式上は完全に適法であり、外部からの批判に対して「何も違法なことはしていない」と防御できる仕組みになっている。こうした巧妙な正当化と隠蔽こそが、腐敗指数でははかれない、日本の権力構造を硬直化させ、世代交代を阻害する最大の要因なのだ。
日本社会は「長く在職すること」自体を美徳とする価値観も根強い。「組織に長く尽くすこと」が評価される文化は、一見すると献身と忠誠の表れに見える。しかしそれは実際には、権力の循環を阻害する原因となっている。米国では「創業者でも10年も同じ地位にいれば長すぎる」という感覚があるのに対し、日本では「長く在任すること」自体が能力や献身の証として称賛される。この感覚の違いが、日本の組織における世代交代の停滞を生み出している根本原因の一つだろう。
権力の循環不全は、組織だけでなく日本社会全体に深刻な影響を及ぼしている。新たな発想や変革の機会が失われ、社会全体が保守化・硬直化する原因となっている。
感情的満足が奪う世代交代の機会
結果平等と権力者への過剰な倫理的要求
一方で、日本社会は世界でも稀に見る「結果平等」を実現している。企業経営者から官僚まで、権力者の報酬は国際水準と比較して著しく低い。一見すると、これは平等な社会の証に見える。しかし、この「平等」こそが社会の停滞を生み出す最大の要因なのだ。
市井の人々は、「あの偉い人でも私とそれほど違わない生活をしている」という事実に密かな満足感、あるいは反発心の低下という消極的満足感を得る。これは日本社会に広く浸透した感情的欲求であり、大企業の社長が高級車に乗り、豪邸に住み、贅沢な生活を送る姿を見れば、多くの人々は反感を覚える。
マスコミは権力者の特権を糾弾し、世論は彼らの「過剰な」報酬(僕はむしろ、著しく低いと考えている。)を批判する。この感情的反応は、表面的には健全な監視機能に見えるが、実際には社会全体の新陳代謝を阻害する病理なのだ。
こういった構造は、何も金銭報酬のみにとどまらない。米国では、成功者がある種の倫理的なタブーを犯していたとして、例えばイーロンマスクがたくさんの女性と子供を作っていたとして、それが彼の職業人生を終わらせるようなことはない。 日本では、少しでも不倫なり社会的な常識に反する発言なりでもしようものなら、すぐさまに糾弾され、その社会的地位まで失うことはみなさんご存知の通りである。それゆえ、たとえば有名経営者が愛人を持っていても、それは隠れた形でしか実施されない。そして表立ってそれをやろうものなら、たくさんの人に叩かれるのである。
つまり、我が国は、影響力を持つ高い地位にある人物に対して、金銭的にも行動的にも、市井の民と同じ地位に降ろして、結果平等を極めて高い水準で実現している。そしてそれが皆の感情的な満足感、公平感を高めている代わりに、新陳代謝によってかつての権力者が次の世代に潔くその地位を渡し、世代間でバトンを繋いでいくような動きを発生させるというオプションを放棄しているのである。
公平感という名のオプション放棄
権力者への嫉妬と監視は、一時的な感情的満足をもたらす。「あの人も私と同じ」という平等感は、人々の心を慰める。しかし、この感情的満足の代償として、我々は社会の更新機能を犠牲にしているのだ。権力者の報酬を抑制し、彼らの倫理的な振る舞いを厳しく監視することで得られる「公平感」と引き換えに、我々は社会全体の将来に対する「オプション」を手放している。
平等を追求するあまり、次世代へのバトンパスが停滞し、新たな発想や改革の機会が失われる。これは感情的満足のために支払う、あまりにも高すぎる代償ではないか。つまり、「結果平等」への執着が「機会平等」を阻害するという皮肉な結果を生んでいるのだ。
この問題の本質は「機会損失」にある。権力者への低報酬と厳格な行動規範は、表面的には財政節約や公平性に見えるが、実際には次世代の人材が重要ポストに就く機会を奪っている。日本社会では、毎年何千人もの優秀な若者が、古い世代が居座る組織のピラミッドの中で才能を埋もれさせている。彼らが本来持つはずだった革新的アイデアや変革へのエネルギーが無駄にされていることこそ、真の国家的損失と言えよう。
「結果平等」の錯覚は、日本社会を深い罠に陥れている。平等な社会を実現しているように見えて、実際には世代間の不平等を固定化し、社会全体の可能性を狭めているのだ。我々は感情的満足のために、未来への選択肢を犠牲にしている。そしてその作用は、僕たち一人ひとりの価値観に植え付けられているがゆえに、簡単に解消もできない。僕自身ですらその一人である。
逆説的解決策—高報酬が生み出す世代交代の循環
一般的に見て「高すぎる報酬」が促す権力の移行
常識に反するようだが、権力者に高額な報酬を支払うことが、実は世代交代を促進する唯一の道だ。現職在任中に十分な報酬を得て、退職後も経済的な不安がなければ、次世代への権力移譲が心理的に容易になる。これは単なる仮説ではなく、米国や欧州の組織で実証されている事実である。
米国では、CEOが数年間の任期を全うした後、巨額の退職金を手にして第二の人生を歩み始める光景が珍しくない。彼らは経済的自由を得ることで、権力への執着から解放され、若い世代に道を譲る。最大手企業のCEOですら、平均在任期間は7年程度—日本の20年以上と比較して驚くほど短い。この違いを生み出しているのは、「適切な報酬設計」という単純だが強力なメカニズムなのだ。
本来、権力は循環するものだ。ある世代が一定期間権力を握った後、次の世代に譲り渡す—この自然な循環が健全な社会を維持する。しかし日本では、この循環が著しく滞っている。権力を手放すための条件を整えるには、「適切な報酬設計」が不可欠だ。現役時代に適正な対価を得て、引退後も名誉ある地位と経済的安定が保証されるなら、権力者は自然に座を譲るようになる。
オプション料を払おう
官僚や経営者に「オプション料」とも言える十分な報酬を支払うことは、次世代への道を開く投資となる。ここでいう「オプション」とは、将来の社会変革の可能性を意味する。現在の低報酬体制では、権力者は退任後の生活不安から座に固執し、結果として社会は停滞する。しかし適切な「オプション料」を支払えば、権力移行の流れが生まれ、社会全体に新たな可能性が広がる。
より具体的には、政府高官や企業経営者の報酬を国際水準に近づける必要がある。たとえば、財務省事務次官の年収を現在の約2,000万円前後から5,000万円~1億円程度に引き上げ、大企業CEOは数億円規模の報酬を得るぐらいは最低限必要だろう。これは単なる「高給取り優遇」ではなく、適切な地位の循環を促すための社会的投資である。同時に、退任後の処遇も重要だ。名誉ある「引退」の文化を育て、退任者を敬意をもって送り出す社会的儀式を確立すべきだ。経済的保証と社会的尊厳が伴えば、権力の座を譲る心理的ハードルは大幅に下がる。
この「循環型権力構造」への転換は、短期的には高コストに見えるかもしれない。しかし長期的には、社会全体の活力を取り戻し、次世代に機会を提供する最も効率的な投資となるのだ。
自浄作用は望めるか
現状では、この問題に対する日本社会の自浄作用は期待できない。「官僚の収入をもっと下げよ」「稼いでいる経営者は許せない」という空気が社会を覆い、改革の芽を摘んでいる。日本人の平等志向は、権力者への批判という形で表出し、結果として社会全体の停滞を生み出すという皮肉な結果を招いている。
自浄作用を失った機構は、現在の組織形態を保ったままでの改革が著しく困難だ。そういった意味では、財務省解体を叫ぶデモの主張は一面の真理を突いている。進化が不可能な組織は、解体と再構築という創造的破壊を必要とする場合があるのだ。歴史を振り返れば、真の社会変革はしばしば激しい破壊を伴ってきた。日本もまた、そのような変革の時期に差し掛かっているのかもしれない。
このまま行けば、天災や戦争、ハイパーインフレなどの大規模な社会変動によって、いずれ強制的な変化が訪れるだろう。しかし、そのような破壊的変化を待つ前に、計画的な改革を実行する選択肢もある。理想的には、報酬体系の見直しと権力移行メカニズムの確立を通じて、漸進的な変革を進めるべきだ。しかし現実には、既得権益の抵抗から、そのような改革は極めて難しい。だからこそ、「解体」という急進的手段は、皮肉にも最も現実的な選択肢として合理的な方法になりうるのである。
この問題については最終的に日本社会全体、国民一人ひとりの覚悟が問われている。感情的な平等主義と目先の満足を優先するか、それとも理性的な判断で社会の長期的繁栄を選ぶか。権力者に一般的感覚からして「高すぎる」(僕は妥当だと考える)報酬を支払い、彼らの円滑な退出と新たな世代への道を開くことは、感情的には不満を生むかもしれない。しかし、それこそが日本社会に真の活力を取り戻す唯一の道なのだ。
日本社会には今、「結果平等」がもたらす一時的な公平感に安住するか、それとも次世代のための「機会平等」を創出する社会へと生まれ変わるか—その選択の時が来ている。我々は感情的満足のために未来を犠牲にし続けるのか、それとも一時的な不満を受け入れてでも次世代のために道を開くのか。財務省解体デモは、その選択を迫る警鐘なのかもしれない。