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2025-02-18
#雑記

日常生活の代理戦争

「代理戦争」という言葉があります。

冷戦期における米ソの対立や、その双方の陣営に組み込まれた小国同士の争い――これらを表す言葉として僕たちが耳にする「代理戦争」。

一般には、軍事大国同士の正面衝突を避けるために、小国や傀儡的な存在を通じて戦わせる構図を意味します。歴史の教科書でも取り上げられるこの現象は、あたかも壮大かつ特殊な地政学的力学の産物であり、自分たちの日常とは無関係なもののように見えがちです。しかし、実のところ代理戦争と同様の構図は、僕たちが暮らす社会の至るところに潜んでいるのです。

たとえば、企業間競争においては、一見ライバル企業同士が激しく批判し合い、市場でのシェア争いを繰り広げるイメージがあります。しかし実態をよく観察すると、直接的に名指しで非難や攻撃を行うケースは意外なほど少ない。その代わりに、広告代理店や関連企業、あるいはファンコミュニティなどが批判や比較を担い、代理として矢面に立つ――そんな構図が見られます。

さらに、僕たちが学生時代を思い返してみると、クラスでリーダー格と目される人物同士が正面切ってぶつかり合うことは、さほど多くなかったのではないでしょうか。「A派」と「B派」という派閥に分かれ、当人たちではなくその取り巻きが小競り合いを起こしていた――それこそ、日常生活における代理戦争の典型といえます。一見“反抗心が強くて気が荒い生徒同士”のぶつかり合いに見えて、実はその背後には、リーダー同士の立場を脅かすことを避けるための「暗黙の均衡」が存在していたのです。

「代理戦争」は、国際政治の世界に留まらないばかりか、むしろ人間の生態そのものが生み出す普遍的な現象ともいえるでしょう。このように捉え直すと、僕たちの日常生活には大小さまざまな代理戦争が渦巻いていることに気づかされます。

このように、「代理戦争」は遠い世界の出来事ではなく、身近なものとして再発見できるものです。では、なぜ“同格の者同士”が直接対決を回避し、その背後で代理戦争を展開するのか、その深層心理とパワーバランスの構造を掘り下げていきましょう。


なぜ対等な二者は直接ぶつからないのか?――同格同士が戦いを避ける力学

同格の人物、企業、国家同士が、直接衝突に踏み切らないのはなぜなのか。端的にいえば、彼らは自らの地位を大きく揺るがす“致命的な敗北”を恐れるからです。互いに強大な勢力を持つ以上、真正面からの戦いは総力戦となり、どちらかの完全な優位が確立されかねない。その結果、敗者側となれば、今まで築き上げてきた地位や信用を一瞬で失う可能性があるわけです。

“パンドラの箱”を開けるリスク

米ソ冷戦において、核戦争という“パンドラの箱”を互いに開けずに済んだのは、直接衝突がもたらす破滅的な帰結をお互いが十分に理解していたからにほかなりません。同様に、ビジネスの世界でも、巨大企業同士が真正面から相手を非難し、徹底的に市場を奪い合う戦いに乗り出せば、その後始末には莫大なコストと時間がかかります。下手をすれば、勝者でさえも評判を落とし、泥沼化してしまう危険性がある。そうした“パンドラの箱”を開けないために、巨大な力を持つもの同士は、互いに牽制し合いながら、代理として周囲を利用するという選択をするのです。

「自分の代わり」に戦ってくれる存在

このような勢力均衡の中で、代理戦争における対決者の役割を担う存在は、往々にして自発的に動いているように見えます。しかし実は、リーダーや巨大企業の意向を察知して行動をとっている場合もあれば、自分の利益になると思って自ら主体的に加担している場合もあり、理由はさまざまです。

たとえば芸能界では、売れっ子タレント同士が表立って批判合戦を行わなくとも、そのファンコミュニティが熱狂的に応援合戦を繰り広げ、相手側を攻撃する構図が見られます。そこでは、当事者(タレント)同士が直接ぶつかるよりも安全かつ効果的に“代理の戦場”が構築されているわけです。

均衡状態が崩れるのはいつか

このように、同格同士は直接対決をなるべく避けるのですが、何かのきっかけで均衡状態が崩れると、雪崩を打つように雌雄を決するための戦いが表面化することもあります。

歴史的には、古代ギリシアの都市国家同士のパワーバランスが崩れたとき、あるいは中世ヨーロッパの諸侯同士の権力闘争において、真の覇権を求めて戦争に至るという事例は枚挙に暇がありません。つまり、もともと両者が潜在的に持っている対立の火種は常にあるのですが、決戦を回避していた均衡状態が何かの拍子で崩壊するということです。これが、双方の対立が“代理戦争”では収まらなくなり、正面衝突に移行する瞬間です。勢力均衡の転換点こそが、大国同士や巨大企業同士が実際に火花を散らす“歴史的事件”として後世に語り継がれるわけです。

以上のように、同格同士の存在は決定的な敗北のリスクを避けるために、あえて直接ぶつからず代理を立てる――これが「代理戦争」が日常にも根付いている大きな理由です。


直接的批判は力の差を前提とする

同格同士の代理戦争の行き着く先にあるものが、「陣営同士が雌雄を決したあとに生まれる直接的な批判の解放」です。具体的には、勢力均衡の状態にあった2つの勢力において、一方の陣営の勝敗が決まってしまうと、かつての強者を批判する言説が増えるという現象が起こりやすい傾向があります。

雌雄を決した後こそかつての「弱者」の声が大きくなる

歴史的な例を挙げるなら、ローマ帝国に併合された属州の人々が、後世の史料や民話を通じてローマ批判を表明するケースがあります。また、日本の幕末においても、徳川幕府がその権力を完全に失いつつあった頃から、庶民や反幕府派からの批判が公然化していきました。このように、かつての弱者は、かつての強者に対してその勢力が弱まったタイミングで、批判を公然と行うようになります。

同様の構図は現代の企業社会でも見られます。大企業が一度不祥事や業績悪化などで弱みを見せたとき、これまで潜在的に不満を抱えていたステークホルダーが一気に批判に回るという構図を、誰しも一度は見たことがあるのではないでしょうか。

直近の2025年現在では、フジテレビがまさにそういった状況に陥っていると言えるでしょう。

ここで重要なのは、「直接対決前」の緊張状態では、同格、または上位格の相手を率直に批判するのはあまりにも危険だということです。直接対決を仕掛けた結果として、相手の方が優勢であれば、自分自身の立場を脅かすことになるため、迂闊に批判には踏み切れません。しかし情勢の雌雄が決して、明確な強者と弱者の構図が固まると、もともと弱者側、あるいは同格であった陣営は、かつての強者に対して批判を繰り広げることが容易になるわけです。

真の強者に対する畏怖

強者がその勢力を失いつつある状況において批判の声が挙がることの裏返しとして、真に圧倒的な強者に対しては、あまり批判は起こらないという現象もあります。企業や人間同士の評判の世界でも、圧倒的な技術力や世界的ブランドを持つ企業は、その立場があまりにも揺るぎないため、批判の声があがったとしても瞬時にかき消されるか、逆に批判が周囲から奇異の目で見られることすらあります。つまり、弱者による批判が成立するには、強者と弱者の境界が絶対的ではなく、ある程度の「揺らぎ」や「同情」が生じる状況が必要なのです。

例えば、大谷翔平や藤井聡太に対して、野球や将棋という分野で批判をする人は存在しませんし、スマホ市場の競争という文脈で、日本でかつてスマホを開発していたメーカーがアップルを批判するようなこともあまり見られません。

日常生活における“弱者からの批判”の構図

このような現象のより身近な例として、学校生活で思い出してほしいのが、リーダー格の生徒同士が対立し、どちらか一方が完全に優位に立ったときのことです。地方の公立高校であれば喧嘩の強さ、仲間からの人気度合い、進学校であれば勉強のでき、部活動での成果などで同格にある強者同士は、滅多なことでは真っ向から対立せず、お互いに対してリスペクトを持っているような態度で接し合います。

しかし、あるとき勢力均衡が崩れ、その勝ち側がクラスの空気を制圧してしまえば、敗れたほうはやがて教師や周囲に対して「あいつは陰湿だ」「やり方が汚い」などと批判を展開するようになります。

これは“勝った側”が権力の象徴になったからこそ、“負けた側”が負け犬の遠吠えをするという形で言葉を解放しやすくなる事例です。もちろん、この批判が本当に正当かどうかはケースバイケースですが、同格同士が真っ向勝負で激突している最中には生まれにくい直接的批判が、決着後に花開くメカニズムがあるのです。この例は上記のような「かつての強者」が立場が入れ替わった際に「かつての弱者」から批判される構図とは少し毛色が違うものの、分かりやすい批判が同格同士ではなく、明確に強弱がついた関係の中で生まれやすいという点は共通していると言えます。

以上のように、同格同士が直接戦わない背景には「避けるべきリスク」があり、一方で雌雄が決まったあとに批判が解放されるという現象があります。


まとめ

代理戦争というと、多くの人は冷戦下の米ソや現代の地域紛争を想起し、遠い世界の話と捉えがちです。しかし、僕たちの身の回りにも大小の代理戦争が存在しています。学校での派閥争い、企業間競争、芸能界のファン同士の攻撃合戦など、その例を挙げれば枚挙に暇がありません。

同格同士が滅多に直接対決に踏み切らない背景には、強者同士による「闘えばどちらかの優劣が決定的に固まり、元の均衡状態に戻れない」というリスクに対する自覚があります。一方で、いざ雌雄が決して強者と弱者がはっきりすると、かつての強者に対する批判の声があがりやすくなります。そして、その勝負での敗北によって弱者側に位置付けられた側も、強者の取った方法を公然と批判するようになります。

緊張状態にあるときは口をつぐんでいた当事者同士も、形勢が完全に決まれば、ある種の“安心感”を伴ってお互いを批判できるからです。

僕たちにとって、このような日常の代理戦争の構図を理解することは、大きな意味を持ちます。なぜなら、目の前の対立や批判の裏にある“真の当事者”を見極める視点が得られるからです。誰がリーダーシップを握り、誰が代理として声を上げ、誰が結果的に利を得るのか。こうした力学を見抜くことができれば、ただ周囲の空気に流されるのではなく、自分自身の頭で状況を判断できるようになるでしょう。

本質的に、僕たち人間は「直接対決の緊張感」を避けながら、「自分の利益や立場を守る」ために、しばしば代理を立て、戦いを外部化する存在です。そして、そうした間接的な衝突がいずれは明確な勝敗を生み出し、そのあとに弱者が強者を批判するという構図が繰り返し現れる――この一連のメカニズムを知っておくことで、社会に散在するさまざまな争いの裏側を読み解くヒントを得られます。

もっと個人に当てはまるような例で言うならば、クラスや職場の女性同士で、部活動や仕事への取り組み方、マナーについて、相互に陰口を言い合っているようなケースも一種の代理戦争と言えます。表向きには、Bさんが「Aさんは自分の仕事が終わっていないにも関わらず、早く帰ってしまう」などと社会的な常識の欠如に対する批判をしているとしましょう。しかし、その真意には、BさんがAさんに対して、耳に挟む家族の人間関係の良好さなどから、人生を自分よりも楽しんでいるような様子を感じ取っていて、単純に気に食わないというような感情を持っているというようなケースは少なくありません。これは、言い換えれば「仕事に対する考え方」という社会的なテーマを槍玉にあげて、気に食わないAさんが持っている考え方と自分の考え方との間で代理戦争をさせていると言えます。

あくまでも考え方の戦いであるということにして、「単純にBさんが自分より幸福そうなので嫌いである」というような自分の社会的正義も何もない本音で直接的に戦うことを避けているわけです。

代理戦争という言葉は、実は家庭内でも、友人関係でも、職場でも、日常的に起こっています。その多くは、同格同士が直接対決を回避するための自己防衛策です。大きなリスクを負うことなく、メンツや表面的な調和を保ちつつ、自分の主張を通そうとするとき、私たちは無意識のうちに第三者を巻き込んでしまう傾向があります。


最後に強調したいのは、「代理戦争」は単なる負の現象や卑怯な手段ではないということです。たしかに、ここまで挙げたような方法は、一見すると直接対決を回避する臆病な行動のように思えますが、場合によっては社会や組織の安定を保つための知恵でもあるのです。互いに核を保有する大国同士が、代理戦争にとどまって正面衝突を回避してきたように、代理戦争が惨禍を回避するための抑制として機能した面は否定できません。日常生活においても、感情的に全面衝突して周囲を巻き込むより、周囲を緩衝材にして一定の均衡を保つ方が得策だという考え方はある種のリアリズムといえます。

しかし、その「代理戦争」が自分自身や周囲にもたらす影響を正しく理解しなければ、いつのまにか望まぬ形で争いに巻き込まれてしまったり、本来は正面から論じ合うべき課題が曖昧なまま先送りされてしまったりしかねません。だからこそ、僕たちは代理戦争という概念を抽象的に捉え、“自分は今、誰の代理として、何のために行動しようとしているのか”を見極める必要があるのです。

日常における代理戦争を自覚するということは、「自分の置かれた立場とそれを取り巻く力関係」を鋭く理解することに直結します。それは、自分の人生やキャリアをコントロールするうえでも大いに役立つ視点であり、同時に社会の常識や既成のルールに囚われない自由な視野を得るための道筋ともなるはずです。