AIがプログラマや翻訳家を淘汰するという論調が社会に蔓延している。ChatGPTやGemini、Claudeといった生成AIの台頭により、「もはや人間が学ぶ必要はない」という極めて危険な思想が世の中で共有されつつある。だが断言しても良いが、これは致命的な錯誤である。
AIでできるから勉強しなくて良いという主張は、多くの人にとって猛毒的な言葉だ。真に受けてしまえば、極めて不可逆的かつ壊滅的なキャリア的ディスアドバンテージを被ることになる。そしてこの言葉は、真に受けてしまいたくなるほどに、人間の怠惰な本能に対して魅力的であるからこそ危険であり、特に10代から20代の若年層がこの罠に嵌まれば、その代償は計り知れない。
数学、物理学、生物学、情報科学(プログラミングとは異なる)、化学、母国語、外国語、文章執筆能力、歴史、これらの基本的で普遍的な学問を若年期に放棄した者は、後年になって取り返しのつかない知的空白と対峙することになる。脳の可塑性が高い若年期に形成されるべき思考回路は、単にAIに頼ることでは決して構築されないからだ。
特に数学や言語能力は、抽象的なフレームワークで世の中を理解する能力を鍛える上で極めて効果的だ。これは単なる計算や文法の理解ではない。世界を構造的に分析し、普遍的な法則を見出す力だ。この能力こそが、目の前の現象から本質を抽出し、未知の問題に対しても適応できる柔軟性を生み出す。
抽象的思考力の真価は、それが分野を超えて応用できる点にある。例えば、プログラミング言語におけるクラス設計は、生物学における生物の分類体系と構造的に同一である。ブラックショールズ方程式によるオプション価格算出は、古典力学における天体運動の予測と本質的に同じ数学的構造を持つ。この視点を獲得できるか否かが、専門家と単なる目の前の流行技術を追いかけ続ける作業者とを分ける決定的な差となる。
僕は近年の実学偏重教育論、例えばプログラミング、会計、経営学、金融理論、投資学習の優先には明確に反対している。なぜなら、これらの分野は基礎学問と比較して本質的に「理解が簡単」だからだ。
この主張にその業界で働く人は顔をしかめるかもしれないが、数学や物理学のような基礎的な学問の深遠さ、理解の難しさと比較すれば、業務用アプリケーション開発のためのプログラミングのような実学的な分野が簡易であることは自明だ。多くの専門家が、わざわざ口論の種になるようなことをあえて口にしないだけである。
実学的知識の致命的欠点は、その陳腐化の速さにある。今日学んだプログラミング言語や会計基準、投資手法は、10年後には大幅な変更を迫られているだろう。対して、抽象的思考力や基礎学問で培われる普遍的理解は、時代や技術変化に左右されることなく、むしろ新しい変化を理解するための礎となる。
基礎学問によって培われた抽象的思考力があれば、実学的分野の習得は相対的に容易になる。逆は真ならず、実学だけでは基礎学問の深い理解には至れない。この非対称性こそが、自分自身の、そして自分が教育する相手(自分の子供など)に対する教育投資における最も重要な指針となるべきだ。
おそらく今しばらく、1年ぐらいすると既存の枠組みを超え、異なる分野の知識を融合し、未知の問題に対して創造的な解決策を生み出す力だけが、人間の知的労働として残されるようになる。この能力は、実務的スキルの単なる積み重ねではなく、基礎学問を通じた抽象的思考力の鍛錬によってのみ獲得される。
AIが何でもできるようになったとしても、基礎学問を学ぶ意義が失われることはあり得ない。むしろ、AI時代だからこそ、基礎学問を通じて培われる抽象的思考力の価値は飛躍的に高まっている。表層的な技術の習得に走るのではなく、思考の基盤そのものを強化することこそが、予測不能な未来において最も確実な知的投資なのだ。
「学ばなくて良い」という猛毒的な言葉に惑わされず、面白いと感じられる分野への探究心を毎日持って生きていこう。