「代理戦争」という言葉があります。
冷戦期における米ソの対立や、その双方の陣営に組み込まれた小国同士の争い――これらを表す言葉として僕たちが耳にする「代理戦争」。
一般には、軍事大国同士の正面衝突を避けるために、小国や傀儡的な存在を通じて戦わせる構図を意味します。歴史の教科書でも取り上げられるこの現象は、あたかも壮大かつ特殊な地政学的力学の産物であり、自分たちの日常とは無関係なもののように見えがちです。しかし、実のところ代理戦争と同様の構図は、僕たちが暮らす社会の至るところに潜んでいるのです。
たとえば、企業間競争においては、一見ライバル企業同士が激しく批判し合い、市場でのシェア争いを繰り広げるイメージがあります。しかし実態をよく観察すると、直接的に名指しで非難や攻撃を行うケースは意外なほど少ない。その代わりに、広告代理店や関連企業、あるいはファンコミュニティなどが批判や比較を担い、代理として矢面に立つ――そんな構図が見られます。
さらに、僕たちが学生時代を思い返してみると、クラスでリーダー格と目される人物同士が正面切ってぶつかり合うことは、さほど多くなかったのではないでしょうか。「A派」と「B派」という派閥に分かれ、当人たちではなくその取り巻きが小競り合いを起こしていた――それこそ、日常生活における代理戦争の典型といえます。一見“反抗心が強くて気が荒い生徒同士”のぶつかり合いに見えて、実はその背後には、リーダー同士の立場を脅かすことを避けるための「暗黙の均衡」が存在していたのです。
「代理戦争」は、国際政治の世界に留まらないばかりか、むしろ人間の生態そのものが生み出す普遍的な現象ともいえるでしょう。このように捉え直すと、僕たちの日常生活には大小さまざまな代理戦争が渦巻いていることに気づかされます。
このように、「代理戦争」は遠い世界の出来事ではなく、身近なものとして再発見できるものです。では、なぜ“同格の者同士”が直接対決を回避し、その背後で代理戦争を展開するのか、その深層心理とパワーバランスの構造を掘り下げていきましょう。
同格の人物、企業、国家同士が、直接衝突に踏み切らないのはなぜなのか。端的にいえば、彼らは自らの地位を大きく揺るがす“致命的な敗北”を恐れるからです。互いに強大な勢力を持つ以上、真正面からの戦いは総力戦となり、どちらかの完全な優位が確立されかねない。その結果、敗者側となれば、今まで築き上げてきた地位や信用を一瞬で失う可能性があるわけです。
米ソ冷戦において、核戦争という“パンドラの箱”を互いに開けずに済んだのは、直接衝突がもたらす破滅的な帰結をお互いが十分に理解していたからにほかなりません。同様に、ビジネスの世界でも、巨大企業同士が真正面から相手を非難し、徹底的に市場を奪い合う戦いに乗り出せば、その後始末には莫大なコストと時間がかかります。下手をすれば、勝者でさえも評判を落とし、泥沼化してしまう危険性がある。そうした“パンドラの箱”を開けないために、巨大な力を持つもの同士は、互いに牽制し合いながら、代理として周囲を利用するという選択をするのです。
このような勢力均衡の中で、代理戦争における対決者の役割を担う存在は、往々にして自発的に動いているように見えます。しかし実は、リーダーや巨大企業の意向を察知して行動をとっている場合もあれば、自分の利益になると思って自ら主体的に加担している場合もあり、理由はさまざまです。
たとえば芸能界では、売れっ子タレント同士が表立って批判合戦を行わなくとも、そのファンコミュニティが熱狂的に応援合戦を繰り広げ、相手側を攻撃する構図が見られます。そこでは、当事者(タレント)同士が直接ぶつかるよりも安全かつ効果的に“代理の戦場”が構築されているわけです。
このように、同格同士は直接対決をなるべく避けるのですが、何かのきっかけで均衡状態が崩れると、雪崩を打つように雌雄を決するための戦いが表面化することもあります。
歴史的には、古代ギリシアの都市国家同士のパワーバランスが崩れたとき、あるいは中世ヨーロッパの諸侯同士の権力闘争において、真の覇権を求めて戦争に至るという事例は枚挙に暇がありません。つまり、もともと両者が潜在的に持っている対立の火種は常にあるのですが、決戦を回避していた均衡状態が何かの拍子で崩壊するということです。これが、双方の対立が“代理戦争”では収まらなくなり、正面衝突に移行する瞬間です。勢力均衡の転換点こそが、大国同士や巨大企業同士が実際に火花を散らす“歴史的事件”として後世に語り継がれるわけです。
以上のように、同格同士の存在は決定的な敗北のリスクを避けるために、あえて直接ぶつからず代理を立てる――これが「代理戦争」が日常にも根付いている大きな理由です。