なぜそんな仕事をしているのか、自分でも分からないし、他人にも評価されない。そんな仕事のことをブルシットジョブと呼ぶ。

デヴィッド・グレーバーによる2018年の著書、「ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論」ではそのような仕事がなぜ発生し、その発生をなぜ止められないかが解説された。

そして今、僕はその人本人が良い仕事、善行であると信じてやまない仕事についても、「拡張されたブルシットジョブ」と呼ぶべきものが存在するのではないかと考えている。

拡張されたブルシットジョブの特徴


本来は解消すべき問題を放置したまま、あえてそれに対症療法的に対処する仕事を生み出す方が、評価されやすいという構造がある。

そういった仕事は直接的には貢献や善行に見え、当人は「価値がある」と信じて疑わない。しかし、問題の根源に介入しようとせず、あくまで対症療法的な行為で満足してしまうため、いつまでも同じ課題が繰り返される。

典型的なのは「川下でゴミを拾い続ける」ような行為だ。川上でゴミを流出させない仕組みづくりに取り組めば、そもそも拾う必要さえなくなるかもしれない。それでも川下での活動に集中し続けるのは、目に見える達成感が大きく、周囲からも「良いことをしている」と評価されやすいからだ。

こういった姿勢が蔓延る原因には、最初から川上でゴミを流さないようにできる人の成果は、可視化されにくいということもあるだろう。

やりがいと称賛に溺れるリスク

人は自分の行為を「良いこと」「誰かの役に立つこと」と認識すると、そこから得られる快感ややりがいを優先しがちになる。さらに周囲から称賛を受ければ、その仕事を続けるインセンティブは高まっていく。

ただ、そこで見落とされがちなのが「そもそも、その仕事がなくなる状態を目指す努力はしているか」という問いだ。

ゴミ拾いで言えば、ゴミが生まれないようにする方が社会全体には大きなメリットがあるにもかかわらず、あえてそこに踏み込まない。拡張されたブルシットジョブは、そうした構造的なアプローチを先送りにしたまま、自己満足や周囲からの評価によって維持されてしまう。

ホワイトワーカーにおける拡張されたブルシットジョブの事例